長時間労働、低賃金が辞める理由なのか
勤務体系の変化の始まりは、鈴木社長の20年前の決意だった。
鈴木社長は大学を卒業するとアルバイトとして働いていた名古屋のヒルトンホテルに就職する。父からは「矢場とんは大変だから継がなくていい」と言われていたが、ホテルマンとしての将来が見通せず悶々(もんもん)としていたとき、母から「帰ってこないか」と声をかけられた。
一流ホテルで働いた鈴木さんにとって矢場とんの職場は衝撃的だった。
「戻ってすぐの頃、若い子が2人無断欠勤したので、『やる気がないなら辞めてくれ』と言い渡しました」
たった4人しかいない社員のうちの2人だった。そのとき父と母は「そんなことをしたら誰もいなくなるよ」と笑っていた。当時は社員の遅刻や無断欠勤が当たり前で、その日になるまで来るか来ないかわからないのが当たり前の状況だった。
我慢ならずヒルトン時代の先輩に電話した。「ヒルトンでは無断欠勤は即刻クビと教わりましたよね」。先輩は「お前のところに人事部はあるのか。辞めさせて1週間後に代わりの人材が入ってくるのか」と言われた。
「心底、人事部がほしいと思った。社員をクビにできなかったのですが、どうしても許せず、自分も含めて丸刈りにして再始動しました(笑)」
それ以降、鈴木社長は労働基準法や勤務体系、人事システムと取っ組み合ってきた。「家業から企業にしよう」「自慢できる会社にしていこう」と社員に声をかけ経営の革新を進めてきた。一方で、鈴木社長には割りきれない気持ちもある。
「私たちの働き方の根本はブルーカラーなんです。ところが労働のルールはホワイトカラーを基準にしたルールになっているから、飲食店に馴染まない部分もあるのです」
たとえば調理人として一人前になろうとすれば短期間に長時間仕事をしたほうが腕は上がる。また、いろんな事情があって長時間働いて少しでもたくさんお金を稼ぎたい社員がいても、希望にこたえられない。
「今の時代、長時間労働イコールブラック企業の烙印(らくいん)を押されてしまいます。ならば8時間勤務の中身を濃密にし、稼げる仕事に変えていかなければなりません」
鈴木社長は創業の精神を今の時代に置き換えて考えている。
「うちは終戦から2年後に祖父が創業した飯屋が始まりです。多くの人が食べるのも困難な時代に、『うちで朝から晩まで働けば、子どもにも腹いっぱい食べさせてやれる』と社員に言ったのが原点。私は、社員に子どもが生まれてその子たちが大学受験をするとき、私立の大学の学費を出せるような給料を払いたい」
離職率9%の秘密は、社員を自分の家族と考える経営にある。
撮影=小栗広樹