さて、その後の慶喜だが、実は彼はとても好奇心が旺盛で、さまざまな趣味を楽しんだようだ。まず、静岡において慶喜が興味を示したのが油絵。当時は東北地方においてなおも戦闘が続いている状況であり、慶喜は隠居生活をすごす常盤町の宝台院を出られる立場になかった。そのため、家の中でできる油絵が最適だったのだ。
さらに慶喜は、明治への改元以降、身が軽くなったのと比例するかのように多彩な趣味を持つようになり、狩猟、鷹狩、囲碁、将棋、投網(とあみ)、能、刺繍(ししゅう)などに取り組んだ。駿府城公園の濠(ごう)ではウナギ釣りまでしていたという。
なぜ慶喜が多趣味だったかといえば、彼の進歩的な考えが影響している。「写真を撮られると寿命が縮む」といわれた時代、数多くの肖像写真を遺したのも彼だし、将軍の座に就く以前から洋食を好み、「豚一(ぶたいち)」というあだ名で呼ばれたこともあった。「豚一」とは、「豚を好んで食する一橋」(「一橋」は慶喜の相続先)という意味である。
「水戸黄門」は晩年、家老を刺殺した!?
常陸国の水戸藩主・徳川光圀が30年におよぶ藩主の座から退いたのは1690年10月のこと。そして光圀は、権中納言(ごんちゅうなごん)に任ぜられた。光圀は一般的に「黄門さま」と称され、親しまれているが、これは、その「権中納言」を古代中国の官にあてはめたときに「黄門侍郎(こうもんじろう)」と呼ばれることによるものである。
さて、江戸を去った黄門さまは、その後どのような晩年を送ったのだろうか。
光圀が隠居の地として選んだのは、父母と妻が眠る瑞龍山(ずいりゅうさん)があり、母の菩提寺である久昌寺(きゅうしょうじ)がすぐ側にあった久慈郡新宿村西山(現・茨城県常陸太田市新宿町)。隠居の家は「西山荘(せいざんそう)」と呼ばれ、質素な生活を送りながら、生涯を通じて編纂した『大日本史』の原稿に目を通すなどしていたという。
そんな穏やかな晩年を送っていた光圀だが、実は、彼は1人の家老を刺殺している。1694年3月より、徳川綱吉に「大学」の講義を請われ、江戸に滞在していた光圀は、同年11月23日、小石川の藩邸で能を興行し終えたあと、楽屋に水戸藩の江戸家老・藤井紋太夫を呼び出し、刺殺してしまう。つまり、「手討ち」である。
史料をいくら手繰(たぐ)っても、なぜ光圀が紋太夫を殺したのか明らかにならないが、一説によると、紋太夫の専横が目立ったためとか、紋太夫が綱吉の側近・柳沢吉保とともに陰謀を企てていたためともいわれる。ただ、それらの説もあくまで推測にすぎない。
1700年12月、光圀は病床で静かにこの世を去った。手討ちの真相は、光圀があの世へ持っていってしまったため、今後も、事件解明への道のりは険しいものとなるだろう。
珍談奇談の類から、学術的に検証された知識まで、種々雑多な話題をわかりやすい形で世に発表する集団。江戸時代に編まれた『耳袋』のごとく、はたまた松浦静山の『甲子夜話』のごとく、あらゆるジャンルを網羅すべく日々情報収集に取り組む傍ら、最近ではテレビ番組とのコラボレーションも行なった。