生類憐みの令において多くの保護規定が出されたのは、犬に関することだった。これは「犬公方」とも呼ばれた綱吉の意向を反映したものであるが、法令違反者に対する罰則はかなり厳しく、家来が犬に噛み付かれたためその犬を斬り殺したところ、なんと切腹を命じられた藩主がいたり、銃で鳥を撃って商売していた与力や同心らは、それが発覚して11人が切腹を命じられたほか、子どもも流罪(るざい)に処せられたほどだった。

そんな状況であるから、誰も犬に近寄らなくなり、エサをやることもなくなったため、野良犬が増えてしまう。対策に困った幕府は、当時は田園風景が広がっていた江戸近郊の中野や喜多見、四谷などに犬小屋(お囲い)を設け、そこで犬たちを飼うことにした。特に、中野の犬小屋は16万坪もの広大な敷地に築かれ、収容された犬の頭数は実に8万2000頭、年間のエサ代は9万8000両(現在のお金に換算すると数十億円)に上ったというから驚きである。しかも、その金を負担したのは江戸や関東の村々だったのである。

中野区役所前に設けられた犬たちの像(写真:KADOKAWA)

このように、「悪法」の異名を持つ生類憐みの令だったから、綱吉が「この法だけは自分の死後も存続させるように」と言い残したにもかかわらず、彼の死後10日ほどで犬のための税などは廃止されることになった。ただし、一説によると、この法令が出されたおかげで命を大切にする風潮が世に広まり、人殺しが減ったともいわれている。綱吉の生き物への慈しみの精神はその後も受け継がれ、現在は同令を良法と捉える見方もあるほどだ。

ちなみに、東京の中野に設けられた犬小屋の跡地は、8代将軍・徳川吉宗の頃に桃園に変えられ、庶民の憩いの場となった。そして、中野の犬小屋の名残は現在、中野区役所前にある犬のオブジェのみとなっている。

最後の将軍・徳川慶喜の意外なる余生

1867年10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出したのち、将軍の座を追われた徳川慶喜は、二条城、大坂城、江戸城を転々としたあと、1868年2月より上野寛永寺において謹慎生活を始め、4月には水戸の弘道館での謹慎生活を余儀なくされる。そして同年5月、慶喜は徳川家を継いだ家達(いえさと)の後見人・松平確堂から駿府(現・静岡県静岡市)への移転を求められ、これが新政府によって認められたことから、同地で生活することとなった。