夢をあきらめ、研究者に。結婚を機に専業主婦に

母は、1926年(大正15年)、18代続いた医者の家系に5人きょうだいの次女として生まれました。母の両親、私たちの祖父母は母が生まれる前、ヨーロッパへ留学していたこともあり、母は幼い頃から朝はコーヒーとトーストを食べるような西洋風の生活をしていたようです。生家は決して裕福ではありませんでしたが、ヨーロッパから持ち帰ったピアノがあって、母は幼い頃、このピアノを弾くのがとても好きだったと話していました。

(上)真理子さん5歳、家族での一コマ。(中)長兄・博さんがトークショーに参加したとき、楽屋に家族全員が集まった。(下)文子さんは80歳で心臓病、85歳でガンを患い、2013年に87歳で死去。これが、文子さんが生前、子どもたちと撮影した最後の写真に。

でも、青春時代に戦争を経験。19歳で終戦を迎え、大切にしていたピアノは没収され、家族を支えるため、戦後も自分の好きに生きることはかなわなかったんですね。そんなとき、エリザベス・サンダース・ホームの澤田美喜さんを知り、戦災孤児のケアに夢中になったようです。YMCAのボランティアリーダーも経験し、ガキ大将のようなリーダーシップを身につけたんでしょう。

その後、時代が落ち着き、やっと自分の道を切り開く余裕が生まれたのですが、文筆家という夢ではなく、祖父が医化学者だったこともあり、新制大学で学び直し、企業内研究所で抗生物質の研究に携わるようになったんです。その時点で母は結婚する気はなかったそうです。でも、知人の紹介で学者の父と知り合い、父の人となりや研究に対する思いに共感し、結婚を決意。母31歳、父35歳ですから2人ともに晩婚ですよね。そして、長兄の博、次兄の明、長女の私が生まれました。

母は、父から子どもたちの教育をすべて任されているから、私の好きなようにするんだと豪語してましたけど、2人が共通して言っていたのは、「何事も必死になってやれ」ということ。勉強でも何でも中途半端なことをしていると「必死じゃない!」と叱責(しっせき)されるんです。

子どもなりに「一生懸命やってるじゃない!」と反抗するんですけど、母はガキ大将みたいな態度と言い回しで「必死になるということは、必ず死ぬということよ。あなたはまだ死んでないじゃない」と言ってくるんです。反論する気にもなりませんよ。子どもの口げんかみたいでしょ(笑)。

でも、そう言い放つぶん、私たちがやりたいことは全力で応援してくれましたし、常に子どもを信じて見守ってくれました。あるとき、次兄が学校をサボっているのがバレ、停学処分になったのですが、母は喪服を着て、「うちの息子は悪くない。悪いことをするためにサボったんじゃない」と、校長先生の元へ抗議に行ったんです。ガキ大将のような母でしたが、母の言動は強い愛情に裏打ちされたものでした。