母は昔も今も私が目標とする女性。超えることのできない大きな人です。現在92歳。今なおパワフルに社会と関わり続け、私がアメリカに滞在していると、1人で遊びに来ることも。あの大胆さと行動力は私には太刀打ちできません。大正生まれで、戦時中を生き抜いた人が持つたくましさとしなやかさは、戦後生まれの私にはどうやっても身につけることのできない強さですね。
母は、1925年(大正14年)、栃木県と群馬県の県境で10人きょうだいの3番目として生まれました。上州地方は寒さが厳しい自然環境。土地は貧しく、稲作より養蚕が盛んなため、養蚕はもちろん製糸や機織りに従事する女性が多く、男性に頼らず独立した働き者が多いことから「かかあ天下と空っ風」といわれるほどの土地柄。だから、女性が仕事を持つことは当たり前。そんな土地柄に加え、母は戦争体験があるので、限られた人生を楽しもうという気持ちが強いのでしょうね。
戦時中、東京・浅草で日本刺繍(ししゅう)の店を営んでいた父の家族が群馬県館林市に疎開していて、母はそこに日本刺繍を習いに行っていたんです。その日本刺繍の師匠が私の祖父。でっち奉公からたたき上げられた職人気質の祖父がまず母を気に入ったそうです。当時の浅草は、今の東京・青山のようなおしゃれの最先端スポット。そんな所で長く生活をしてきた祖父には、おおらかでよく働き、底抜けに明るい母が新鮮だったのでしょう。あるとき、祖父から「きんぴらゴボウをつくってくれ」と言われ、ゴボウをぶった切っただけのきんぴらゴボウを用意したら、驚かれると同時に「ささがきにされた、こぎれいなきんぴらゴボウより旨い!」とひどく喜ばれたそうです。それで「ぜひ、息子の嫁に」と請われ、父と結婚したのです。戦後、生活が落ち着き、祖父は東京へ戻っていきましたが、教員をしていた父は、母と群馬県に残ることに。