4人の子どもの教育資金は惜しまない

母自身、ピアノを習いたくても習えなかった、高校に進学したくてもかなわなかったという思いが強く、母の年の離れた一番下の妹の高校進学費用も出してあげたそうです。だから、私たちにも「嫁入り道具は用意できないけれど、勉強したいことがあれば何とかお金を工面する。だから、身につけたいものが何かを自分で見つけなさい」と言われていました。私は4人きょうだいの長女。3歳下の弟は幼い頃、歩行障害があって、治療のために東京の大学病院まで電車で通っていたんです。その頃ですね、将来は医者になりたいと思うようになったのは。どうすれば医者になれるか考えたとき、東京に出ようと思ったのです。医学部のある東京の大学をめざすには、高校から進路を絞って勉強するべきだって。それで、東京の高校に行きたいと両親に相談すると、快諾してくれました。おかげで、中学3年生から東京で下宿生活をしながら勉強し、慶應義塾女子高等学校に入学。一般試験を経て、慶應義塾大学医学部に進学しました。

1986年、スペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げ直後に爆発炎上したことを受け、その後の打ち上げは延期。宇宙飛行士に選ばれて初搭乗まで9年を要し、94年コロンビア号、98年ディスカバリー号に搭乗。

そんな肝っ玉母さんですが、94年、私が初めて宇宙へ行く際、カウントダウンが始まると絶叫したそうです。「ロケットを止めてぇ~!」と叫びながら、おいおい泣いていたんですって。宇宙滞在中に家族から届いたファックスでそれを知ったのですが、出発まで普通に接してくれていた母がそんなに取り乱すなんて想像していなかったからビックリ。心配を掛けてしまったなぁと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。2度目の打ち上げの際は、母も腹をくくったようで、絶叫することなく見送ることができたようです。

父は10年以上も前に亡くなりましたが、母はまだまだ元気。胃ガン・腸ガンで、胃と腸をそれぞれ半分切除しましたが、「本当に切ったの?」と言われるほど食欲旺盛で、キャリーバッグに野菜や乾物をたくさん詰め込んで、私の滞在先に料理をつくりに来てくれるほど体力も十分。いなり寿司や煮物などをたくさんつくって、冷蔵庫をいっぱいにして帰っていくんですね。実家のカバン店は末弟が継いでいるのですが、母は「同居したらゆっくり遊べなくなるからイヤ」などと言って、いまだに1人暮らし。3階にある自分の部屋から1階のお店まで、時間は掛かりますが一人で上り下りできますからね。母の同級生はほぼ亡くなっているようで、今では父の元教え子と遊び回っています。ぼける暇はありませんよ(笑)。

人を大切にする生き方、人生を楽しむ生き方を母に教えられました。24時間をどう使うか、人生の過ごし方は人それぞれ。その人が納得できる生き方ができればいい。でも、納得のいく人生は、仕事を通して見えてくるものだということも母に教えられましたね。

向井千秋(むかいちあき)
1952年5月6日、群馬県出身。医学博士/JAXA所属。慶應義塾大学医学部卒。同大学出身者初の女性外科医。心臓血管外科医として勤務するなか、NASDA(現JAXA)選抜の宇宙飛行士候補者に選ばれ、日本人女性初の宇宙飛行士に。スペースシャトルに2度搭乗。

構成=江藤誌惠 撮影=国府田利光