結婚式はあげず、結婚資金を店の開業資金に

母は、祖父から習った日本刺繍を生業(なりわい)にしていました。芸子さんがひいき筋に配るハンカチや、デザインの古くなった帯を刺繍でアレンジしたり、GHQの兵隊さんが本国に持ち帰る日本土産に刺繍したり。当時は東京からどんどん注文がきて、ずいぶん忙しくしていたようです。父との結婚が決まって、「結婚式の足しに」と祝い金をいただいても、母は結婚式はしないと言い張り、その祝い金をそのまま、日本刺繍の技術を生かしたカバン店「べにや」の開業資金にあてたそう。父も現実的な人だったので、母の思いに即賛同したようですね。

(左)喜久男さんはスキーが得意だったこともあり、ミツさんを誘うこともしばしば。子どもが生まれてからは家族全員でスキーに出掛けるように。(右上)ミツさん91歳。千秋さんとバハマを訪れた際の写真。ここ数年、ミツさんと2人でアメリカに旅行へ行くたび、千秋さんは「これが最後になるかも……」と思っているが、ミツさんはまだまだ元気だそう。(右下)ミツさん92歳。昨年出掛けたメキシコ旅行時。

当時は、農家でも日々の食事に困る人が多く、そんな人たちが住み込みでお店の手伝いや家事をしてくれていました。若い人よりもばあや、じいやみたいな人がほとんどでしたが、多いときで10人ほどいましたね。家族はもちろん、お手伝いの人全員が一緒に食事する時間も場所もないから、大皿料理を並べて、手の空いた人から食事を取っていました。店が忙しく、私たちきょうだいが両親と一緒に過ごす時間はありませんでした。幼い頃、家族で一緒にご飯を食べた記憶もありません。小さな間口のお店からスタートしたカバン店は皆の努力で、数度の移転を繰り返すほど繁盛。そんな忙しい最中でしたので、とくに長女の私と長男の弟の2人は、人手が足りなくなる盆暮れ正月は東京の親族に預けられることも。でも、私たちの周りにはいつも人がいたので、ひとりぼっちになることはありませんでした。そんな経験も今考えればプラスに。誰からも好かれるよう「挨拶」の大切さも母から厳しく教えられました。