※本稿は、神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
女子部の友人から「ムッシュ」と呼ばれていた嘉子
おおらかで明るく優しく、それでいて知性のある嘉子は、明大女子部でも多くの友人を得ました。嘉子を含む4人組の仲間たちで、学校近くの駿河台下を歩いてみつ豆を食べ、三省堂書店に出入りし、料理学校に行き、家に帰ってからも電話をするほど仲良しでした。YWCAで水泳をした後に授業に出て、濡れた髪のままで居眠りをしてしまうなどということもあったようです。
この頃の嘉子は、友人たちから「ムッシュ」(編集部註:結婚前の姓「武藤」にちなんだ呼び方)というあだ名で呼ばれていました。明るく元気な青春時代のエピソードは多く残っていて、東京で雪が降った日に、お使いで肉屋に行こうとした嘉子は、乃木坂をスキーで滑り降りて警察官に注意されたそうです。
混声合唱団の発表会ではソプラノソロを任された
また、東京女高師附属高女(現・お茶の水女子大学付属高校)の頃と変わらず、嘉子の多才ぶりも発揮されていました。
明大には混成合唱団があり、嘉子も友人たちと一緒に入団しました。土曜日・日曜日に集まって、明治大学記念館〔初代の記念館は1911(明治44)年に竣工されましたがわずか半年で火災により焼失、二代目の記念館も関東大震災で焼失、嘉子が通った頃に立っていたのは三代目でした。1996(平成8)年に解体され、跡地に現在のリバティタワーが建設されるまで、明治大学の象徴でした〕などで練習したようです。
その発表会が秋に開かれ、そこでは「白雲なびく」で始まる有名な明大の校歌や、短めのドイツ曲などが披露されましたが、最後に「流浪の民」(ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが1840年に作曲した「三つの詩 作品二九」の中の1曲)の合唱があって、嘉子がソプラノソロを務めました。
この頃の嘉子も、やはり迷信を信じるようなところがあったようで、友人の一人が、一緒に「こっくりさん」をやってテストに何が出るかを「こっくりさん」に聞いた思い出を語っています。理知的でありながら無邪気な一面を持つ、嘉子らしいエピソードです。
もっとも、嘉子の孫にあたる團藤美奈さんの記憶の中には、「おばあちゃん」として接した嘉子のイメージとして、迷信や占いを信じるようなところはなかったということなので、青春時代の一時のことなのかもしれません。