ドラマ「虎に翼」(NHK)の主人公・寅子(伊藤沙莉)のモデルとなった法曹家・三淵嘉子。法制度の歴史を研究する神野潔さんは「嘉子が明治大学法学部で学んでいた1936年、女性も高等試験司法科(現在の司法試験)を受験できるようになった。嘉子は成績優秀で、男子学生が圧倒的に多い中、卒業時は学部総代に。高等試験でも女性初の合格を果たした」という――。

※本稿は、神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

九段坂から見た駿河台キャンパス、3代目明治大学記念館(左上)、1930年
九段坂から見た駿河台キャンパス、3代目明治大学記念館(左上)、1930年(写真=『大東京写真帖』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

女子部の友人から「ムッシュ」と呼ばれていた嘉子

おおらかで明るく優しく、それでいて知性のある嘉子よしこは、明大女子部でも多くの友人を得ました。嘉子を含む4人組の仲間たちで、学校近くの駿河台下を歩いてみつ豆を食べ、三省堂書店に出入りし、料理学校に行き、家に帰ってからも電話をするほど仲良しでした。YWCAで水泳をした後に授業に出て、濡れた髪のままで居眠りをしてしまうなどということもあったようです。

この頃の嘉子は、友人たちから「ムッシュ」(編集部註:結婚前の姓「武藤むとう」にちなんだ呼び方)というあだ名で呼ばれていました。明るく元気な青春時代のエピソードは多く残っていて、東京で雪が降った日に、お使いで肉屋に行こうとした嘉子は、乃木坂をスキーで滑り降りて警察官に注意されたそうです。

混声合唱団の発表会ではソプラノソロを任された

また、東京女高師附属高女(現・お茶の水女子大学付属高校)の頃と変わらず、嘉子の多才ぶりも発揮されていました。

明大には混成合唱団があり、嘉子も友人たちと一緒に入団しました。土曜日・日曜日に集まって、明治大学記念館〔初代の記念館は1911(明治44)年に竣工しゅんこうされましたがわずか半年で火災により焼失、二代目の記念館も関東大震災で焼失、嘉子が通った頃に立っていたのは三代目でした。1996(平成8)年に解体され、跡地に現在のリバティタワーが建設されるまで、明治大学の象徴でした〕などで練習したようです。

その発表会が秋に開かれ、そこでは「白雲なびく」で始まる有名な明大の校歌や、短めのドイツ曲などが披露されましたが、最後に「流浪の民」(ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが1840年に作曲した「三つの詩 作品二九」の中の1曲)の合唱があって、嘉子がソプラノソロを務めました。

この頃の嘉子も、やはり迷信を信じるようなところがあったようで、友人の一人が、一緒に「こっくりさん」をやってテストに何が出るかを「こっくりさん」に聞いた思い出を語っています。理知的でありながら無邪気な一面を持つ、嘉子らしいエピソードです。

もっとも、嘉子の孫にあたる團藤美奈さんの記憶の中には、「おばあちゃん」として接した嘉子のイメージとして、迷信や占いを信じるようなところはなかったということなので、青春時代の一時のことなのかもしれません。

小林薫が演じる穂高のモデルになった教授が熱心に指導

入学した頃には50人ほどいた同級生は、結婚などで退学する者も多く、卒業の頃には20人程度にまで減ってしまいました。小さな学校でしたが(明大女子部法科の入学者数は徐々に減少し、嘉子が卒業して明大法学部に通い出した頃には、20人強まで落ち込んで廃止論も起こりますが、その後回復していきます)、それでも、年齢の幅や思想の幅も広く、多様性に富んだその環境は、嘉子に大きなプラスの影響を与えました。また、穂積重遠などの教授たちが、とても熱心に力を入れて講義を展開していたことも、大きな刺激になっていました。

後に嘉子は、明大女子部を引き継いだ明治大学短期大学の創立50周年記念講演に出席し、女性が大学で法律や経済を学ぶこと自体が白い目で見られていた時代であったので、女子部の学生たちはとてもエリート意識などを持てなかったこと、しかし、自分に力をつけて人間らしく生きていこうという気持ちが強かったことなどを語っています。

人間であるということ、人間として生きるということ。嘉子の人生を貫くこの意識は、青春時代に形成されていったのだと思われます。

1929年の明治大学女子部開校式、『明治大学百年史』 第二巻 史料編II、1988年
1929年の明治大学女子部開校式、『明治大学百年史』 第二巻 史料編II、1988年(写真=明治大学百年史編纂委員会/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

男女共学となった法学部に進み、成績で男子を圧倒する

1935年(昭和10)3月、明治大学専門部女子部を卒業した20歳の嘉子は、希望通り明治大学法学部に編入しました。明大法学部に進んでも嘉子は成績優秀で、1938年3月に卒業する際には法学部の総代となっています。

試験の時には、周囲の男子学生にカンニングをお願いされることもあったということです。優秀でありながら、明るく穏やかで少しいたずら好きの嘉子には、もしかしたらずるいお願いもしやすかったのかもしれません(正義感の強い嘉子は、もちろんそのお願いを受けなかっただろうと思います)。

学生たちにとって、学校という場で異性と机を並べるのは、小学校を卒業して以来のことでした。おそらくお互いに関心はあったでしょうが、話しかける勇気がある人はほどんどいなく、女子学生たちは教室の前の方に集団で席を取って、授業を受けていました。授業が終わっても、自然と女子だけで行動するようなところがあったと、嘉子自身も振り返っています。

卒業時には法学部総代、教育機会は平等であるべきだと実感

大学で中心となっていたのは、やはり男子学生でした。人数の少ない女子学生は、男子学生の勉学の場をお借りしているような雰囲気だったとも、嘉子は後に語っています。

しかし、嘉子が総代を務めたように、成績については女子学生は男子学生に全くひけをとりませんでした(明大女子部の第1回卒業生が、編入して明大法学部を卒業したのは1935年のことですが、この時は立石芳枝・高窪静江の女性2名が成績上位者3名の中に入っていたようです)。男女のあいだには気持ちの壁があったにせよ、明大は女子学生にとって平等を体感できる場所でした。

明治大学女子部学生による模擬裁判、1944年以前
明治大学女子部学生による模擬裁判、1944年以前(写真=明治大学『図録明治大学百年』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

後に嘉子は、教育における差別こそ戦前の男女差別の根幹であり、人間の平等にとって教育の機会均等こそが出発点であると述べていましたが、明大はこの問題に正面から向き合った、まさしく「パイオニア」の学校の一つであったのです。

弁護士試補時代は同世代の半額以下の月給で働く

1938年(昭和13)3月に明大法学部を卒業した嘉子は、同年に高等試験司法科を受験し、田中(結婚後、中田)正子、久米愛とともに女性で初めて合格しました。23歳になっていました。

高等試験司法科に合格すると、弁護士試補としての1年半の修習が待っていました。嘉子は第二東京弁護士会に配属されましたが(弁護士会というのは、弁護士法に基づき、地方裁判所の管轄区域ごとに一つ設置される団体ですが、東京だけ例外的に複数の弁護士会があります。強制加入団体で、弁護士は必ず所属しなくてはいけません)、当時の試補は無給で、修習のために弁護士会に対して国から交付される経費の一部を、手当としてもらえる仕組みになっていました。

とはいえそれはかなり安く、当時の私立大学出身者の初任給が月45円くらいのこの時代に、嘉子が受け取っていた月の手当は20円程度でした。戦前は弁護士の地位が裁判官・検察官と比べて低く、このようなところにも露骨な差が設けられていました。

丸の内の弁護士事務所に勤め、女性弁護士仲間と食事も

嘉子は、丸ノ内ビルヂング(丸ビル)に入っていた仁井田益太郎の弁護士事務所で修習しました。仁井田は裁判官・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任した人物で、第二東京弁護士会の創立者・会長でもありました。修習のあいだ、討論の場で年上の男性たちに対して意見を言うことは、なかなかやりにくいことでした。いくら女性に門戸が開かれたといっても、社会的には女性に対して厳しい目が向けられている中で、嘉子も自然と遠慮しながら意見を述ベることが続きました。

一緒に合格した正子と愛の二人は第一東京弁護士会に配属されて修習しており、三人ともそれぞれ丸の内にある法律事務所にいました。

三淵嘉子と共に女性弁護士第一号となった明治大学女子専門部の中田正子、『アサヒグラフ』 1954年5月5日号
三淵嘉子と共に女性弁護士第一号となった明治大学女子専門部の中田正子、『アサヒグラフ』 1954年5月5日号(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

お昼の時間に丸ビルのレストランに行ったり、皇居のお濠沿いを散歩したり、初の女性合格者三人の切磋琢磨せっさたくまする友情は続きました〔正子は1939年(昭和14)に中田吉雄と結婚し、夫とともに鳥取に移って弁護士として活動しました。愛は日本婦人法律家協会の会長を長く務め、嘉子とも多くの場面で行動をともにしました〕。

「お嬢さん弁護士」と紹介され「向いているかわからない」

修習を終え、さらに見事、みごと弁護士試補考試にも合格した嘉子は(正式には、この段階で、初の女性弁護士が誕生した、ということになります)、いよいよ弁護士としてのキャリアを歩み始めることになります。

1940年6月16日付で、嘉子たちがまもなく修習を終えることを伝える『東京日日新聞』には、「生れ出た婦人弁護士 法廷に美しき異彩“女性の友”紅三点抱負も豊かに登場」という見出しが踊っていますが、「お嬢さん弁護士」と紹介された嘉子のコメン卜は、「まだまだこれからです」、「一本立ちといっても自信もないし自分に向く仕事かどうかもわからないんです。まあやるとすれば民法をもつ(っ)と研究してゆきたいと思つてゐ(い)ます」という、淡々としたものでした。

1940年(昭和15)12月、嘉子は弁護士登録をして(試補時代のままに)第二東京弁護士会に所属し、引き続き仁井田益太郎の事務所で勤務することになりました。主に離婚訴訟を引き受けて働き出した嘉子でしたが、身近な生活にまで、戦争の足音が迫ってきていました。それまでも中国との戦争が続いていましたが、1941年12月に太平洋戦争が始まります。

戦時下では民事訴訟の数自体が大きく減り、嘉子は弁護士としての活動がほぼできない状態になっていきます。

明大女子部法科の助手となり、後輩の教育に熱を入れる

そのような中で、嘉子の生活の中心は、母校明大女子部法科での教育となっていきました。弁護士登録をするよりも前の1940年7月、嘉子は明大女子部法科の助手となっていたのです。さらに、1944年8月には助教授へと昇進しました(なお、その頃には明大女子部は改組して、明治女子専門学校となっていました)。

神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)

教師となった嘉子は、入学してきた女子学生たちの憧れの存在でした。学生たちは、「初の女性弁護士」というイメージとは遠い、明るく人間性豊かな嘉子に驚き、またその優しさに感謝したそうです。そのおおらかな雰囲気と反対に、講義が始まると、その張りのある声ときっちりした話し方とに、学生たちは惹きつけられました。

遠く満州から入学してきたある学生は、最初に会った時に、嘉子が優しく「遠くからよく来られたわね」と声をかけてくれ、良い靴がなくて困っていた時には、横浜の元町の靴屋まで連れて行ってくれたと語っています(なぜ遠く元町まで出かけたのか、嘉子のお気に入りの靴屋があったのか、わかりません)。

戦局が悪化し、望んでいた弁護士活動はできなかった

当時の明大女子部の校舎は新しくなっていて、現在の山の上ホテルの近辺にあり、嘉子はここで民事演習、親族法、相続法などの講義を担当していました(戦後も続けています)。

とはいえ、戦局は日に日に悪化し、学校で勉学することが徐々に難しくなっていきました。明大女子部は繰り上げ卒業を実施し、防空演習や救護訓練なども学校で多く行われて、とても厳しい時代でした。