丸の内の弁護士事務所に勤め、女性弁護士仲間と食事も
嘉子は、丸ノ内ビルヂング(丸ビル)に入っていた仁井田益太郎の弁護士事務所で修習しました。仁井田は裁判官・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任した人物で、第二東京弁護士会の創立者・会長でもありました。修習のあいだ、討論の場で年上の男性たちに対して意見を言うことは、なかなかやりにくいことでした。いくら女性に門戸が開かれたといっても、社会的には女性に対して厳しい目が向けられている中で、嘉子も自然と遠慮しながら意見を述ベることが続きました。
一緒に合格した正子と愛の二人は第一東京弁護士会に配属されて修習しており、三人ともそれぞれ丸の内にある法律事務所にいました。
お昼の時間に丸ビルのレストランに行ったり、皇居のお濠沿いを散歩したり、初の女性合格者三人の切磋琢磨する友情は続きました〔正子は1939年(昭和14)に中田吉雄と結婚し、夫とともに鳥取に移って弁護士として活動しました。愛は日本婦人法律家協会の会長を長く務め、嘉子とも多くの場面で行動をともにしました〕。
「お嬢さん弁護士」と紹介され「向いているかわからない」
修習を終え、さらに見事、みごと弁護士試補考試にも合格した嘉子は(正式には、この段階で、初の女性弁護士が誕生した、ということになります)、いよいよ弁護士としてのキャリアを歩み始めることになります。
1940年6月16日付で、嘉子たちがまもなく修習を終えることを伝える『東京日日新聞』には、「生れ出た婦人弁護士 法廷に美しき異彩“女性の友”紅三点抱負も豊かに登場」という見出しが踊っていますが、「お嬢さん弁護士」と紹介された嘉子のコメン卜は、「まだまだこれからです」、「一本立ちといっても自信もないし自分に向く仕事かどうかもわからないんです。まあやるとすれば民法をもつ(っ)と研究してゆきたいと思つてゐ(い)ます」という、淡々としたものでした。
1940年(昭和15)12月、嘉子は弁護士登録をして(試補時代のままに)第二東京弁護士会に所属し、引き続き仁井田益太郎の事務所で勤務することになりました。主に離婚訴訟を引き受けて働き出した嘉子でしたが、身近な生活にまで、戦争の足音が迫ってきていました。それまでも中国との戦争が続いていましたが、1941年12月に太平洋戦争が始まります。
戦時下では民事訴訟の数自体が大きく減り、嘉子は弁護士としての活動がほぼできない状態になっていきます。