性とは本質的に非対称なもの
セックスとは、結果において(も)非対称な行為だ。たとえ入り口が目配せだとかナントカによるお互いの合意、双方に高揚感をもたらすレクリエーション感覚であったとしても、結果としてそれぞれが負うものは、全く異なる表情をしている。結論だけ見れば男にとっては社会的行為であり、女にとっては完全なる生殖行為だ。どれだけ気をつけても気をつけなくても、妊娠するのは女の側だけであり、それに社会的責任を負ったり負わなかったりするのが男の側である。
女にとって、セックスが迷いや不安を伴わない純粋なレクリエーションとなりえるのは、「絶対にこれで産む(搾り取ってやる)」と意気込んでの行為か、妊娠したら「それは神様の思し召しだから」とノーダウトで産む文化や信仰に生きているか、または「もう妊娠する可能性がない」と分かってから、あるいは「妊娠したからといって産まなくていい」と腹を決めた後か、そのどれかに当てはまる場合だけだ。「産んでみせる」あるいは「産まない」と、セックスによって女性側が負う不確定要素をあらかじめ確定しておくことが、ようやくその行為において(レクリエーションであろうと生殖行動であろうと)男と女を対等な立場に近づける。なるほど、性とは、かように非対称なものである。
女43歳、「よし!仕事しよう!」と思った理由
Webメディア「kakeru」の初代編集長であり、スマホ写真のマーケットプレイス「Snapmart(スナップマート)」の開発者として“いよいよ人生後半戦の勝負に出た”という江藤美帆さんのブログエントリ『40代のおばさんがスタートアップにチャレンジする極めて個人的な理由』が、あらゆる世代の女に刺さりまくっている。
もちろん、それまでも真面目に仕事には取り組んでいた。ただ、仕事が最重要事項ではなかった。なぜなら「もしかしたら子供を産むかもしれない」という思いが頭の片隅にあったからだ。(略)そんな自分にとって「35歳」と「42歳」という年齢は重要なターニングポイントだった。35歳は「自然妊娠して無理なく子供を育てられる限界年齢」であり42歳は「人生において子供が持てる限界年齢」だった。
もちろんこれは私自身の資質を考慮した線引であり、人によってはこれが45歳や50歳だったりもするのだろう(実際にその年齢で子供を産んでいる方もいる)。
ただ私はなぜか長年、この年齢を強く意識していた。そして去年、ついにそのボーダーラインを超えた。43歳になったのだ。”