もう産まなくていい、そう決めたときに訪れたのは「解放感」だった

自分で設定した、「限界年齢」というボーダーライン。江藤さんはそのボーダーを踏んだ時点で、今後子どもを持つことはないと腹を決めた、とつづる。

“「もう自分は子供を持つことはないのだ」と腹の底から思ったときに、どんな感情が湧き上がってくるのか。それについては、私はさっぱり想像がつかなかった。ただ漠然と「悲しいんじゃないかな?」とは思っていた。
ところが、実際は違った。思いがけずホッとしたのだ。いや、そんなぬるいもんじゃない。刑務所から解放されて青空の下に立っているような清々しい気持ちとでも言おうか。走り回って小躍りしたいような気分だった。
「ああ、これでもう子供ができるかもしれないという不測の事態に怯えながら中途半端に仕事をしなくていいんだ。男の人と同じように仕事のことだけに専念できるんだ」と思った。”

もう出産はしないと決意した。もう自分の人生に自分の赤ん坊がやってくることはないと受け入れた。そのとき湧き起こったのは「“ホッとした”なんてぬるいもんじゃない、清々しい解放感」であり、「もう不測の事態に怯えながら中途半端に仕事をしなくていい」という感情だったとの、清冽だが重量感のあるリアリティ。そして不思議なのは、「子を持たなければという無意識レベルの重圧」からの解放に共感した読者たちが、必ずしもシングル女性や、子どものいない既婚女性だけではなかったということだ。子どものいる女性もまた、その重圧をよく知っていたからだ。

わずかでも可能性があるから、苦しくなる

妊娠「できる/できない」で悩むのも、妊娠「する/しない」で悩むのも、女だけだ。江藤さんは続ける。

“「そうなるかもしれないと思う」ことと「物理的に可能性が断たれること」は相当な違いがある。たとえば、不倫している女の子が「彼との結婚は望んでいない」と言いながらも時折苦しむのは、そこにわずかな可能性があるからだ。人の決めることに「絶対」はない。どれだけ理性で律しても「もしかしたら」「万が一」という希望を持ってしまう。
「可能性」という言葉には明るい希望が宿っているように見えるが、必ずしもそうではない。わずかな可能性があることにより、かえって苦しむことだってある。”

可能性とは、苦しいものだ。何かを絶対保証などしてくれない、「可能ではない」結果とも表裏一体。可能性に夢を見るのも、可能性に怯えるのも、本質は同じことなのだ。妊娠検査薬の陽性反応も陰性反応も、共に歓喜で迎えられることもあれば痛ましい号泣で迎えられることもあるのは、こういうわけである。そしてその陽性と陰性は、ダイレクトにその女性の子宮で起こっていることを指す。女にとってのみ、出産とはヒリヒリとした「自分ごと」。だから出産からの解放感とは、すべての女にとって覚えのある、子宮の感情なのだ。