43歳になり、「もう子供を産むことはない。思いきり仕事しよう!」と起業した女性のコラムが、子供を産まなかった女性にも、子育て経験者の女性にも深い共感を呼んでいる。子供を産まないと決めた時、女性にわき起こる気持ちとは。逆に学生時代に“デキ婚”で出産した女性にかけられる言葉とは……?
私の悪友に、結婚だとか妊娠だとか、女の人生の大切な出来事はほぼすべて「泥酔の上での勢いだった」と豪語する女がいる。その話も、片手に赤白1本ずつ持ったワインを代わる代わる喉に流し込みながら聞かせてくれた(誇張)。もし私が男なら是非とも口説きたいと思うであろう、センスもスタイルも良くて肉感的な唇の、しかも賢くてウィットに富んだ、大変いい女である。泥酔して正体をなくさなくたって、散々オファーもあればチャンスもあっただろうにと思われるし、実際、散々あったのだ。
ところがそんな彼女でさえ、いざ「ホンマもんの」結婚、そして「ガチ家族になる」妊娠出産となると、酒の力を借り、エイヤと既成事実で自分を納得させたのだという。「よし、これで決定! もう迷わない!」。それくらい、女にとって結婚とか出産なんてのは、大きな意味を持つということだ。だって子を産むのは、それで体も人生も変わるのは、女のほうじゃないか。
かつて、とある大病院の敏腕医師の可憐な妻が、3人目の子どもを妊娠しながら2人目の子をベビーカーに乗せて列席した“ママ友ランチ”で、こう言った。「夜、夫が帰宅するのが怖い」。だってすぐ襲ってくるのよ……という話で場は笑っていたけれど、そりゃそうだよ、どれだけ産ませたら気が済むワケ? そう思うと確かに怖い。出産したらハイ次の妊娠、という感じで、彼女は傍から見ていて、4~5年くらいいつでも妊娠している印象だった。ずっと家の中にいて、「人波の避け方が分からなくて怖いから、街を歩けなくなった」と言う。現代の先進国の事例とは思えない話だ。
性とは本質的に非対称なもの
セックスとは、結果において(も)非対称な行為だ。たとえ入り口が目配せだとかナントカによるお互いの合意、双方に高揚感をもたらすレクリエーション感覚であったとしても、結果としてそれぞれが負うものは、全く異なる表情をしている。結論だけ見れば男にとっては社会的行為であり、女にとっては完全なる生殖行為だ。どれだけ気をつけても気をつけなくても、妊娠するのは女の側だけであり、それに社会的責任を負ったり負わなかったりするのが男の側である。
女にとって、セックスが迷いや不安を伴わない純粋なレクリエーションとなりえるのは、「絶対にこれで産む(搾り取ってやる)」と意気込んでの行為か、妊娠したら「それは神様の思し召しだから」とノーダウトで産む文化や信仰に生きているか、または「もう妊娠する可能性がない」と分かってから、あるいは「妊娠したからといって産まなくていい」と腹を決めた後か、そのどれかに当てはまる場合だけだ。「産んでみせる」あるいは「産まない」と、セックスによって女性側が負う不確定要素をあらかじめ確定しておくことが、ようやくその行為において(レクリエーションであろうと生殖行動であろうと)男と女を対等な立場に近づける。なるほど、性とは、かように非対称なものである。
女43歳、「よし!仕事しよう!」と思った理由
Webメディア「kakeru」の初代編集長であり、スマホ写真のマーケットプレイス「Snapmart(スナップマート)」の開発者として“いよいよ人生後半戦の勝負に出た”という江藤美帆さんのブログエントリ『40代のおばさんがスタートアップにチャレンジする極めて個人的な理由』が、あらゆる世代の女に刺さりまくっている。
もちろん、それまでも真面目に仕事には取り組んでいた。ただ、仕事が最重要事項ではなかった。なぜなら「もしかしたら子供を産むかもしれない」という思いが頭の片隅にあったからだ。(略)そんな自分にとって「35歳」と「42歳」という年齢は重要なターニングポイントだった。35歳は「自然妊娠して無理なく子供を育てられる限界年齢」であり42歳は「人生において子供が持てる限界年齢」だった。
もちろんこれは私自身の資質を考慮した線引であり、人によってはこれが45歳や50歳だったりもするのだろう(実際にその年齢で子供を産んでいる方もいる)。
ただ私はなぜか長年、この年齢を強く意識していた。そして去年、ついにそのボーダーラインを超えた。43歳になったのだ。”
もう産まなくていい、そう決めたときに訪れたのは「解放感」だった
自分で設定した、「限界年齢」というボーダーライン。江藤さんはそのボーダーを踏んだ時点で、今後子どもを持つことはないと腹を決めた、とつづる。
ところが、実際は違った。思いがけずホッとしたのだ。いや、そんなぬるいもんじゃない。刑務所から解放されて青空の下に立っているような清々しい気持ちとでも言おうか。走り回って小躍りしたいような気分だった。
「ああ、これでもう子供ができるかもしれないという不測の事態に怯えながら中途半端に仕事をしなくていいんだ。男の人と同じように仕事のことだけに専念できるんだ」と思った。”
もう出産はしないと決意した。もう自分の人生に自分の赤ん坊がやってくることはないと受け入れた。そのとき湧き起こったのは「“ホッとした”なんてぬるいもんじゃない、清々しい解放感」であり、「もう不測の事態に怯えながら中途半端に仕事をしなくていい」という感情だったとの、清冽だが重量感のあるリアリティ。そして不思議なのは、「子を持たなければという無意識レベルの重圧」からの解放に共感した読者たちが、必ずしもシングル女性や、子どものいない既婚女性だけではなかったということだ。子どものいる女性もまた、その重圧をよく知っていたからだ。
わずかでも可能性があるから、苦しくなる
妊娠「できる/できない」で悩むのも、妊娠「する/しない」で悩むのも、女だけだ。江藤さんは続ける。
「可能性」という言葉には明るい希望が宿っているように見えるが、必ずしもそうではない。わずかな可能性があることにより、かえって苦しむことだってある。”
可能性とは、苦しいものだ。何かを絶対保証などしてくれない、「可能ではない」結果とも表裏一体。可能性に夢を見るのも、可能性に怯えるのも、本質は同じことなのだ。妊娠検査薬の陽性反応も陰性反応も、共に歓喜で迎えられることもあれば痛ましい号泣で迎えられることもあるのは、こういうわけである。そしてその陽性と陰性は、ダイレクトにその女性の子宮で起こっていることを指す。女にとってのみ、出産とはヒリヒリとした「自分ごと」。だから出産からの解放感とは、すべての女にとって覚えのある、子宮の感情なのだ。
学生で“デキ婚”した女を待っていたもの
私は学生の時、まさに江藤さんの言う「不測の事態」で出産したけれど、当時は今よりずっと、若い「デキ婚」への風当たりは強かった。優しくないどころか、含み笑いや軽蔑や、下世話な好奇心を隠さない反応を受けることがある。「デキ婚は事故でしょ?」と悪びれもせずに言う若い男などもいて「おう、言うねえ。自分が妊娠する側だったらそんなこと言えるのかね」と私は心の中でつぶやいていた。その「事故」で一生が変わるんだよ、その「事故」で立派に人ひとり生まれるんだよ、いつか君も分かるといいね、と。
だから、こんな記事を読むと、「女は産むのが当たり前、と何ら疑問なく信じていられる男」の、その立場にあぐらをかいて大言を吐く素直さ、幼さに微笑んでしまう(参考記事:「あさイチ」が視聴者の“産まない女性批判”を紹介「愚かな女性が増えた」)。
男性は続けて「自分が生きている日本を分かっていない。今すぐ子どもを産み増やさなければこの国は短期間で潰れてしまいます」と危機感をあらわにし、「『子供いらない』というあなた方の老後を養うのは、子供です」「幼稚なエゴを声高に主張する特集でワガママ女が助長しないことを祈ります」と、特集そのものを批判するかのような言葉も飛び出した。
最後には「少なくとも、私の子どもが汗水たらして働いた税金をあなたの老後に使って欲しくないです」との意見をぶつけ、投稿を締めくくっている。”
外野の「産まない女性批判」には“筋違い感”しか感じない
“今すぐ子どもを産み増やさなければこの国は潰れる”。うんそうかもね、じゃあ、あなたが好きなだけ産んでください。当事者じゃない性が、自分のできないこと、したことのない何かを他方の性に当然のこととして求めることの“筋違い感”は、彼が立場を逆転させて我が事として考えたら理解するだろうか。
「心身ボロボロになろうがなんだろうが、今すぐ粉になるまで働きなさいよ、家族を養いなさいよ、だって男でしょ、男ってそういうものでしょ。あなたのくだらない“事情”とか“思い”なんてどうでもいいのよ。日本の斜陽という国家的な一大事に、稼げない人生や稼がない人生を認めろなんて幼稚なエゴを正当化するなんて、愚かな男が増えたもんだわ。そういう情けないワガママ男どもが“多様な生き方”だなんて戯(ざ)れ言を口走って助長しないことを祈ります」とでも言えばいいのだろうか。いや、当の秋田の50代男性なら、「その通りだ、俺は当然、立派にやってる」と言うのかな。“与えられた価値観を疑わない人生”って羨ましいな。
「産め育てろ働け介護しろ」の内実を集約して「女性も輝け」などと求める論調には、自分は外野の安全地帯にいながら、出産可能な若い女たちの尻を叩く男や女の言葉が多すぎる。当事者として経験した人、あるいはそこに寄り添った経験のある人の言葉じゃなければ、私は素直に聞いてあげられそうにない。
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。