星野さんは2002年、日産自動車に市場情報室の室長として迎え入れられる。きっかけは一本の論文。それがカルロス・ゴーン社長の目に留まったのだ。
当時、星野さんは論文を次々と発表していた。アメリカではマーケティング調査は専門会社が担う仕事。だが日本では広告代理店がサービスとして手がけていた。星野さんは代理店経由ではなく、ダイレクトに社会調査研究所へ仕事を発注してもらおうと頼みに行くが、会社に知名度がなく門前払い。
「で、“星野朝子”を売り込まなきゃと思って、『ノースウェスタン大でMBA取ってきた星野です』とか、『近代マーケティングの父、フィリップ・コトラー教授と一緒に書いた論文です』などと虎の威を借る戦法で論文を書きまくっていたんです(笑)」
開発チームと真っ向から対立
ゴーン社長に請われ、転職してきた星野さんだったが、販売予測で開発メンバーと真っ向から対立することに。当時、新車の販売予測は開発チームが担当していた。開発メンバーにしてみれば、自ら手がけるクルマだから、予測はどうしても甘くなりがち。星野さんの販売予測は開発チームの面目を失わせるような低い数字だった。
「アメリカの心理学者、フェスティンガーが唱えた『認知的不協和』理論のように、人は自分が信じていることは耳に入るけど、そうでないと聞こえなかったことにしたり、都合よくすり替えて理解したりということがある。そうしたことを排除して客観的な立場で分析した数字は当たるんです」
開発メンバーはプロジェクトの存続も危うい予測に色を失う。毎晩のようにやってきては、星野さんの予測がいかに間違っているかをとうとうと説明する。けれど予測を上方修正したところで売れる台数が増えるわけでもないと思い、「そんな暇があったら、開発センターに戻ってクルマを造り直したらどうですか」と突っぱねた。
たまりかねた開発メンバーから出たのは「オレたちを殺す気か!」「オレたちはこれに命をかけてるんだ!」という叫びだった。とっさに「仕事に命をかけないでください。命はご家族のために大切にしてください」とかわしたが、「そう言うしかなかった」という。
「私の後ろには市場情報室のメンバーがいますから、『なら1000台プラスで手を打ちましょう』なんて口にできません。私のクレディビリティが地に落ちます」