「職場の三十娘もヒクツになることはない」と慰められた時代
私の手元に今、昭和33年、つまり1958年に出版された本があります。本の内容は、サラリーマンのための処世術といった感じ。いつの時代にも似たような知恵は求められていたようで、目次を眺めているだけでも「今と大して変わらないな」と思います。中身を読み進めていくと、いわゆる男尊女卑としか表現しようのない、時代錯誤な内容のオンパレード(60年近く前の本なので時代錯誤は当然ですが)。その中に「職場の三十娘もヒクツになることはない」なる記述があり、そこには、ここではとてもお見せできないような文章が書き連ねられ、結果「結婚できないことはダメだけど、悲観しなくていい」といった内容のオチになっていました。
時代といえば時代なのですが、かつて、結婚したら女性は職場から去るのが当たり前だった、そのことを如実に表している文章です。30歳になっても職場にいるということは、つまりは“そういうこと”だから、と。
今ではそういう習慣が残る企業は、ほぼなくなりました。こんなことを書くと「そんな古い話をされても、ピンと来ない」という読者のみなさんのお叱りが聞こえてきそうです。確かにその通り。ただ、この時代に20歳前後だった女性、つまり今の皆さんのように職場で働いていた女性は、現在75歳前後。ということは、それほど古い、歴史的というほど遠い昔話でもないのです。
頑張る若手の女性たちを素直に応援できない女性管理職の憂鬱
ずいぶん古ぼけた話からコラムを始めてしまいました。最近、周囲の女性管理職(50歳前後の人が多いでしょうか)の口から、「自己嫌悪に陥っている」といった発言をよく聞くようになりました。
「イマドキの若い女の子は、一生懸命頑張っている。子育てもしてキャリアアップにも力を入れていて、しかも、趣味にも取り組んでいる。応援しなければならない、と思いつつ、どうしても素直になれない自分がいる」というもの。後輩たちが大変な思いをしているのだから、同じ女性だし手を貸したい、力になりたい、とは思う。実際に行動もしている。けれども心は薄雲っている、と言うのです。
「彼女たちは、全てを手にしようとしているでしょう? 私たちだっていろいろと手に入れたかった。けれども、我慢したりあきらめたりして、手にできなかったものがたくさんある。それを当然のように手にしていて、さらに頑張っているとアピールしたり、足りないと文句をつけたりしている姿を見ていると、怒りとは違う、もやもやした気持ちになります」
そして、そんなことを思う自分の器量の狭さに対して憂鬱になってしまうと言うのです。当然、もっと昔の人たちから比較すると、その女性管理職たちも恵まれているはずですが、それを今さら言っても始まりません。なぜそんなことが起きてしまうのでしょう?