10代、20代は挫折だらけ
いい環境で働いてきた私ですが、若い頃から挫折だらけでした。子供の頃は宇宙飛行士か宇宙ロケットの開発者になりたいと思っていました。小学6年生で観たテレビアニメの「宇宙戦艦ヤマト」が一つのきっかけでしたが、中学生時代はアインシュタインに興味を持ち、宇宙への憧憬は大きくなっていきました。「(親元の)広島を離れるな」という親の反対を押し切り、大学は東京大学理科一類に入学。将来は夢の夢ですが、NASA(アメリカ航空宇宙局)で働きたいと考えたこともあります。
けれど大学2年の時、希望していた宇宙航空工学の分野に進むのを断念しました。教養学部で数学に挫折したのが最大の原因です。航空工学も物理学も数学が苦手では記述できないからです。「何のために、東京の大学に進んだのだろう……」。断念することを決めた夜は、さすがに涙が出ました。
私は当時人気が高まっていた理学部生物化学科に進学しました。バイオテクノロジーが流行語になるほどでしたので、心機一転、バイオの学者になろうと思い定めました。しかし、ほどなく自分の決断が甘かったことに気づかされます。同期の学生は21人でしたが、私以外はみな子供の頃から生命の神秘を探求しようと夢を描いてきた人ばかり。その強い思いには到底かなわないと感じたのです。
想像もしなかった異動
結局私は学者の道も諦めました。大学院進学は目指さず、就活を開始。男女雇用機会均等法が施行される前でしたのでハードルは高かったのですが、理系女子を総合職として採用してくれる数少ない会社の一つがキリンビールでした。
最初は製造部に配属され、情報管理や特許などの仕事に就きました。また一時期、酵母の研究に携わったこともあります。モノづくりの会社に技術系で入社したので、いずれは工場の現場で“モノづくり”をやってみたいと希望しましたが、これについては当時はまだ女性の配属は難しかったようです。
希望がかなったことになるのか、その後マーケティング部門に異動し、別の意味でモノづくりに携わることになりました。自分ではまったく想像もしていなかった異動先です。
90年3月21日、「一番搾り」が発売される前日に私は清涼飲料の商品企画担当になり、新しい世界に入っていきます。
永井 隆=構成 向井 渉=撮影