男女関係なく挑戦できた

キリン執行役員 CSV本部ブランド戦略部部長 坪井純子さん

今年に入ってからだったと思います。キリン株式会社とキリンビール株式会社の社長を兼務する磯崎(功典)から「ちょっといいかな」という感じで呼ばれました。何の件かと思案しながら社長室に入ったのですが、そこで執行役員就任の内示を受けました。

女性がキリングループの執行役員になるのは“初めて”といわれています。また私自身これまでにも何度か“女性初”といわれた経験があります。1985年に入社した時、女子総合職として初めて製造部技術課に配属され、97年には経営職(管理職)になり、2010年には商業施設の横浜赤レンガ(本社横浜市)で社長を務めました。

けれど、自分ではあまり女性ということを意識してきませんでした。女性がまだ少ない時代、むしろ上司であった男性リーダーや先輩、周囲の方々のほうがいろいろな意味で大変だったことが多いのではないかと思います。男女関係なく叱るときは叱り、チャンスがあればいろいろなことに挑戦させてくださったこれまでのリーダーや先輩たちにとても感謝しています。

これからは性別はもちろん、年齢、国籍、学歴、グループ内であれば出身会社など関係なしに、誰にでも同じようにチャンスがあるべきだと考えます。そうでなければ、激しい経営環境の中で会社は成長できないし、生き残れません。

キリンは多くの日本企業と同じようにダイバーシティー(多様性)を推進しています。女性の経営職を増やしていく数値目標もあります。女性が働き続けるうえで様々なライフイベントの支援など、企業や社会ができることがまだたくさんあると思っています。

一方、経営職の数など数値の達成だけを目的化してしまうのは違うと思います。「多様性はイノベーションを生み出す」。これがキーワード。異なる価値観や文化がぶつかることで新しい発想や価値が生まれることこそが、多様性の本当の意味だと思っています。

10代、20代は挫折だらけ

いい環境で働いてきた私ですが、若い頃から挫折だらけでした。子供の頃は宇宙飛行士か宇宙ロケットの開発者になりたいと思っていました。小学6年生で観たテレビアニメの「宇宙戦艦ヤマト」が一つのきっかけでしたが、中学生時代はアインシュタインに興味を持ち、宇宙への憧憬は大きくなっていきました。「(親元の)広島を離れるな」という親の反対を押し切り、大学は東京大学理科一類に入学。将来は夢の夢ですが、NASA(アメリカ航空宇宙局)で働きたいと考えたこともあります。

けれど大学2年の時、希望していた宇宙航空工学の分野に進むのを断念しました。教養学部で数学に挫折したのが最大の原因です。航空工学も物理学も数学が苦手では記述できないからです。「何のために、東京の大学に進んだのだろう……」。断念することを決めた夜は、さすがに涙が出ました。

私は当時人気が高まっていた理学部生物化学科に進学しました。バイオテクノロジーが流行語になるほどでしたので、心機一転、バイオの学者になろうと思い定めました。しかし、ほどなく自分の決断が甘かったことに気づかされます。同期の学生は21人でしたが、私以外はみな子供の頃から生命の神秘を探求しようと夢を描いてきた人ばかり。その強い思いには到底かなわないと感じたのです。

想像もしなかった異動

結局私は学者の道も諦めました。大学院進学は目指さず、就活を開始。男女雇用機会均等法が施行される前でしたのでハードルは高かったのですが、理系女子を総合職として採用してくれる数少ない会社の一つがキリンビールでした。

最初は製造部に配属され、情報管理や特許などの仕事に就きました。また一時期、酵母の研究に携わったこともあります。モノづくりの会社に技術系で入社したので、いずれは工場の現場で“モノづくり”をやってみたいと希望しましたが、これについては当時はまだ女性の配属は難しかったようです。

希望がかなったことになるのか、その後マーケティング部門に異動し、別の意味でモノづくりに携わることになりました。自分ではまったく想像もしていなかった異動先です。

90年3月21日、「一番搾り」が発売される前日に私は清涼飲料の商品企画担当になり、新しい世界に入っていきます。