秀次も秀吉のような女好きだったか

関白就任前の12月20日、秀吉は秀次に覚書5カ条を与えますが、その中には諸国が静謐せいひつ(平和)であっても武事を怠ってはいけないこと、法度は堅く申し付けること、朝廷に奉公すること、「神祇・礼・知・信」を欠かさないこと、秀吉のように過度に茶の湯・鷹狩り・女狂いをしないことなどが伝達されています。

ということは秀次にも茶の湯・鷹狩り・女性に耽溺する性質または素地があったと推測されます。この秀吉の覚書は「関白職を譲渡する相手に出すものとは思えないような内容のもの」〔藤田恒春『豊臣秀次』(吉川弘文館)〕と評されることがありますが、それだけ秀吉は秀次を心もとなく思っていたのでしょう。

秀次は関白となったとは言っても、絶大な権力を手中にしたわけではなく、実質的な権力は秀吉が保持していました。筆者はこれまで見てきた秀吉が秀次に与えた言葉からでも、のちの秀次の悲劇的最期が予想できるようにも思えて、何とも言えない気分になるのですが、それでも文禄2年(1593)頃までは両者(秀吉・秀次)の間に大きな波風は立っていません。

不和になったのは秀頼誕生後

文禄2年8月、淀殿は2回目の出産で拾(後の秀頼)を産むのですが、その頃には秀次は体調を崩し、熱海に養生に行かなければいけない状態でした。胸や腹に起こる激痛により、秀次は熱海に湯治に行ったようですが、この頃の秀次は大きな精神的ストレスを抱えていたのかもしれません。それが拾の誕生によるものなのか否かは判然としません。

同年の正月頃より、秀次には奇態な行動が見られていました。文禄2年(1593)正月5日、正親町院が崩御しますが、関白なら喪に服すべきところを異常な行動に出ているのです。例えば正月16日には、聚楽第じゅらくていに参上した公卿・山科言経に「精進ですので」(一定の期間行いを慎み身を清める。肉食を断つ)と断っているのに「生鶴」を無理矢理食べさせたり、2月29日には北野に出て弓遊び(『言経卿記』)、その他にも鷹狩りや猪狩りなどを催しているのです。

『醍醐花見図屏風』安土桃山時代(16世紀)、国立歴史民俗博物館所蔵
『醍醐花見図屏風』安土桃山時代(16世紀)、国立歴史民俗博物館所蔵(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

日本を5つに割り、1つを秀頼に…

「殺生関白」の逸話に繋がるような行動ですが、それはさておき、拾が生まれてから秀吉は伏見城に秀次を呼び寄せ、日本国を5つに分割し、その中の4つを秀次に、拾に1つを与える「日本分割案」を提案しています(『言経卿記』文禄2年9月4日条)。また秀吉が拾と秀次の娘との婚約を策していたことが『駒井日記』(豊臣秀次の右筆・駒井中務少輔重勝の日記)から分かります。