「豊臣兄弟!」(NHK)は明るいサクセスストーリーだが、主人公・秀長亡き後の秀吉には、暗い影がつきまとう。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「秀吉は甥の秀次に関白職を継がせるが、淀殿との第二子誕生後、わずか3年半ほどで秀次は切腹させられた」という――。

山田涼介演じる豊臣秀次の運命

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)において豊臣秀吉(池松壮亮)の甥・秀次(1568~1595)は山田涼介さんが演じています。

今回のドラマで描かれるかどうかはわかりませんが、豊臣秀長の死後、天正19年(1591)12月28日、秀吉の姉の子である秀次は、秀吉の後継として関白に就任します。しかし、秀次の異称に「殺生せっしょう関白」があるように、その評判は良くありません。

秀次の悪逆非道を強調する書物としては、江戸時代前期の『太閤記』(著者は儒学者の小瀬甫庵。秀吉の伝記。史料的価値は低い)があります。同書は、秀次は正親町院(退位した正親町天皇)が崩御されてまだ7日も経たぬのに殺生禁断の比叡山に押し入って、鹿狩りを楽しんだことから「院の御所手向のためのかりなれば これをせつしょう(摂政・殺生)関白といふ」との落首が都に次々と張り出されたと記しています。

盲人の右腕を切り落とした?

さらには秀次が北野に出かけた際に杖をついて歩く1人の盲人の右腕を切り落としたとの逸話を載せています。『太閤記』は秀次が関白の職務をおろそかに考え無道を働いたので、天罰が下り、秀吉から切腹を命じられるという最期を遂げたとの認識を示しています。江戸時代の書物、例えば林羅山・春斎の『本朝通鑑』(1670年)、頼山陽の『日本外史』(1827年)も『太閤記』の影響を受け、秀次の悪逆をクローズアップします。

しかし、そうした中にあって、肥前平戸藩主の松浦静山は随筆集『甲子夜話』の中で「新関(秀次)は桀紂(共に古代中国の暴君)の如き独夫とも聞こへず、全く石田が讒侫と太閤の不明とに出るなるべし」と記し、秀次は暴君ではなく、秀次の死は石田三成による讒言ざんげん(人を陥れるため、目上の人に事実を曲げて告げること)と、それを信じた秀吉の不明であるとしているのです。ちなみに『太閤記』にも石田三成や増田長盛による讒言があったとしていますが、前述のような秀次の無道を強調し、讒言にもそれなりの意味があったとしています。同書は秀吉の立場から書かれているので、そうした記述になるのも仕方ないのかもしれません。

【図表】秀吉の関白就任後から豊臣家滅亡までの30年
Claudeを使用し編集部作成

フロイスの記録では「愛され関白」

秀次については当時、日本に来ていた来日した外国人も記述しています。ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは「この若者(孫七郎殿)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、数日前にも一家臣が他に対して、日本ではそれまでいまだ見聞したことがないようなことを犯したので、その男を殺させた」と『日本史』に記述しているのです。

豊臣秀次像(模写)1909年、東京大学史料編纂所所蔵。原本は京都・地蔵院所蔵、16世紀
豊臣秀次像(模写)1909年、東京大学史料編纂所所蔵。原本は京都・地蔵院所蔵、16世紀(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

ただ、宣教師の報告書や書簡は、貴重なものではありますが、彼ら自身が直接見聞したものでないことが多く、また聞きの場合もあり、全てを信用するわけにはいきません。

さて、では秀吉は甥・秀次のことをどう見ていたのか。秀次は長久手の戦い(1584年4月)の際、三河国に攻め入らんとして、徳川方に奇襲されて、敗北を喫します。秀吉はそれから5カ月ほど経った9月、秀次に譴責けんせき状を送っています。

秀吉が秀次に渡した「ダメ出し」

秀吉はその中で、秀次が他人に「慮外」(無礼)を働いているとして「沙汰之限候」(もってのほか)と叱っています。秀次が改心すれば、何れの国でも与えようが、今のような「無分別之うつけ」(分別のない馬鹿)ならば、秀吉が面目を失うことになるので「手討」にするとの厳しい表現も見えます。この時の秀次はまだ16歳であり、様々な経験が不足していたのは言うまでもありません。秀吉の言葉は酷なようにも聞こえます。が、秀次への評価が芳しくなかったことは分かります。

そうであるのに秀吉は秀次をなぜ関白としたのか。それは秀吉を長らく支えてきた有能な弟・秀長が天正19年(1591)に病死したこと、淀殿(茶々)が産んだ最初の子・鶴松が同年8月に亡くなったことが大きいでしょう。後継者となり得る元服後の身内のは、秀次のみであり、秀吉は仕方なく、秀次に関白職を譲渡したのではないでしょうか。

秀次も秀吉のような女好きだったか

関白就任前の12月20日、秀吉は秀次に覚書5カ条を与えますが、その中には諸国が静謐せいひつ(平和)であっても武事を怠ってはいけないこと、法度は堅く申し付けること、朝廷に奉公すること、「神祇・礼・知・信」を欠かさないこと、秀吉のように過度に茶の湯・鷹狩り・女狂いをしないことなどが伝達されています。

ということは秀次にも茶の湯・鷹狩り・女性に耽溺する性質または素地があったと推測されます。この秀吉の覚書は「関白職を譲渡する相手に出すものとは思えないような内容のもの」〔藤田恒春『豊臣秀次』(吉川弘文館)〕と評されることがありますが、それだけ秀吉は秀次を心もとなく思っていたのでしょう。

秀次は関白となったとは言っても、絶大な権力を手中にしたわけではなく、実質的な権力は秀吉が保持していました。筆者はこれまで見てきた秀吉が秀次に与えた言葉からでも、のちの秀次の悲劇的最期が予想できるようにも思えて、何とも言えない気分になるのですが、それでも文禄2年(1593)頃までは両者(秀吉・秀次)の間に大きな波風は立っていません。

不和になったのは秀頼誕生後

文禄2年8月、淀殿は2回目の出産で拾(後の秀頼)を産むのですが、その頃には秀次は体調を崩し、熱海に養生に行かなければいけない状態でした。胸や腹に起こる激痛により、秀次は熱海に湯治に行ったようですが、この頃の秀次は大きな精神的ストレスを抱えていたのかもしれません。それが拾の誕生によるものなのか否かは判然としません。

同年の正月頃より、秀次には奇態な行動が見られていました。文禄2年(1593)正月5日、正親町院が崩御しますが、関白なら喪に服すべきところを異常な行動に出ているのです。例えば正月16日には、聚楽第じゅらくていに参上した公卿・山科言経に「精進ですので」(一定の期間行いを慎み身を清める。肉食を断つ)と断っているのに「生鶴」を無理矢理食べさせたり、2月29日には北野に出て弓遊び(『言経卿記』)、その他にも鷹狩りや猪狩りなどを催しているのです。

『醍醐花見図屏風』安土桃山時代(16世紀)、国立歴史民俗博物館所蔵
『醍醐花見図屏風』安土桃山時代(16世紀)、国立歴史民俗博物館所蔵(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)

日本を5つに割り、1つを秀頼に…

「殺生関白」の逸話に繋がるような行動ですが、それはさておき、拾が生まれてから秀吉は伏見城に秀次を呼び寄せ、日本国を5つに分割し、その中の4つを秀次に、拾に1つを与える「日本分割案」を提案しています(『言経卿記』文禄2年9月4日条)。また秀吉が拾と秀次の娘との婚約を策していたことが『駒井日記』(豊臣秀次の右筆・駒井中務少輔重勝の日記)から分かります。

秀吉亡き後の家督について対立したか

文禄4年(1595)7月8日、山科言経はその日記の中で「関白殿(秀次)と太閤(秀吉)とが去る三日より不和となっている」と記しています。「御不和」とあるだけで、両者の間に何があったのか、不和の要因については記されていません。

不和となるまで、秀吉と秀次はたびたび面会しています。文禄4年3月には秀吉が聚楽第に秀次を訪ねたり、4月や5月には秀次が秀吉のいる伏見に何度か下向しているのです。6月には秀次は病であるにもかかわらず、伏見に下っています。2人の間で何が話されたのか。

おそらく、豊臣家の家督に関することも含まれていたのではないでしょうか。想像をたくましくすると、この時、秀吉は秀次に対し、拾に関白職を譲ってくれと要請した可能性もあります。しかし、秀次は秀吉の意向に従おうとはしなかったのではないでしょうか。それが原因で両者は不和となり、修復不可能な関係になったとも考えられます。

秀次が謀反むほんを起こそうとしたので、秀吉が怒り、秀次が最終的に切腹させられたとする「謀反説」はよく語られるところですが、秀次には秀吉を圧倒するような軍事力はありませんでした。また秀次は実際に軍勢を動かしてはいません。よって、謀反と言うよりは、秀次が秀吉の意向に背いたこと、これが「秀次事件」の発端となったと考えられます。

豊臣秀次像(殉死した玄隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎、雀部淡路守を配す)、17世紀前半、瑞泉寺所蔵
豊臣秀次像(殉死した玄隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎、雀部淡路守を配す)、17世紀前半、瑞泉寺所蔵(写真=『秀吉展 黄金と侘び』NHK大阪放送局/PD-Japan/Wikimedia Commons)

秀次は高野山にて切腹、享年28

秀吉は大名に対し、最終的に秀次を高野山に追放した理由を「今度、関白相届かざる子細これあるについて」(このたび、関白に意見しても受け入れられない事情があったので)と書状で説明しています。また石田三成らが吉川広家に宛てた書状にも「関白殿、今度、不慮之御覚悟」(関白殿にはこのたび、心外な心構えがあった)とあるのみで、具体的な追放理由については記述されていません。関白職を剥奪し、高野山に追放したにしては、非常にあいまいな内容となっています。秀次は弁明の機会も与えられず、追放され、7月15日、ついに自害して果てるのでした。

さらに、幼い息子4名と姫君、側室・侍女・乳母ら、総勢39名が京都の三条河原で処刑され、秀次の家臣たちも切腹させられてしまいます。

秀吉が血のつながった甥を殺し、多数いるその妻子、家臣までことごとく処刑したのはなぜか。その真相はいまだに謎ですが、秀吉はいずれは息子の拾(秀頼)を関白とし、豊臣家を継がせたかった。しかし、秀次がそれを拒否したことにより、事態は一気に暗転、悲劇的な結末を迎えたのだと思われます。

秀次が切腹した高野山の金剛峰寺
撮影=プレジデントオンライン編集部
豊臣秀次切腹の間がある高野山の金剛峯寺

参考文献
・駒井重勝著・藤田恒春編校訂『増補駒井日記』(文献出版、1992年)
・藤田恒春『豊臣秀次』(吉川弘文館、2015年)