関東平定で10万石クラスの家臣も
秀吉の徳川家臣団の序列介入はこれにとどまらなかった。天正18(1590)年、秀吉は小田原北条家を攻め、家康はその先鋒を任された。小田原北条家が降伏、改易されると、同年7月、秀吉は小田原城に入城して論功行賞を行い、家康には北条家旧領の伊豆、相模、武蔵、上総、下総、および上野と下野の一部が与えられた(現在でいうところの、群馬県と栃木県の一部を除く関東一円に伊豆半島を附けた地域)。
関東での知行割は上野箕輪城(群馬県高崎市)12万石の井伊直政を筆頭に、上野館林城(群馬県館林市)10万石の榊原康政、上総大多喜城(千葉県大多喜町)10万石の本多忠勝が続いた。かれらに続くものが、相模小田原城(神奈川県小田原市)4万5000石の大久保忠世(ちなみに忠世の嫡男・大久保忠隣は武蔵羽生2万石、弟・大久保忠佐は上総茂原に5000石を与えられており、一族としては7万石強を拝領していたと思われる)。以下、鳥居元忠の4万石、平岩親吉の3万3000石と続く。

若かったから「三傑」になった
関東入国にあたって、秀吉から「三傑」をどこに何万石で配置するか、具体的な指示があったという。
ここで一つ問題提起をしたい。ではなぜ徳川家臣団のうち、「三傑」だけが特別待遇なのか。徳川家臣団は酒井忠次・石川数正を東西の旗頭とし、これに家康直属の旗本を加えた「三備」体制を敷いていたが、数正の出奔で、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉、および酒井家次から成る「旗本七備」体制に再編された。
