上京と帰郷を4〜5回繰り返す
高校を中退した斉田さんは、コンビニエンスストアでアルバイトを始めた。すると中学時代にいじめてきた先輩に見つかり、奴隷のように扱われ始める。アルバイトで稼いだお金で買った車に先輩を乗せて、運転手代わりにあちこちに付き合わされるようになった。
そんな生活に嫌気が差したことと、東京への憧れがあった斉田さんは、18歳で一人上京。あてもなく、所持金も心許なかったため、寮のある仕事を探し、トラックの運転手になった。
「もう誰かに怯えて暮らさなくて済む」そう思った斉田さんだったが、現実は非情だった。結局職場の人間関係が行き詰まり、転職を余儀なくされる。
「僕は自分が怒られることや、拒絶されることを異常に恐れるあまり、必要以上に人の顔色を読んでしまいます。人間関係で何か起きると、すぐに自分が悪いのではないかと思うのです。しかし、逆に感情が限界まで溜まると、自分でも制御できないほど激しく爆発することがありました」
故郷に戻り、21歳でタクシーの運転手になったが辞め、友達に勧められて心療内科を受診すると、「うつ病」と診断。しかし25歳で再び上京し、キャバクラのボーイとして働いていると、自分で「うつっぽくない時もあるな」と気がつき、心療内科を受診。すると30歳の時に「双極性障害」と診断された。
その後また上京し、AVのADになったが1年ともたずに辞め、31歳でテレビのADになるも1年ほどで辞め、貯金が底をつくと借金をしてしまい、首が回らなくなると親に肩代わりしてもらい、故郷に戻ることを繰り返した。
「このままでは生きていけない」
40歳の時に運転代行の仕事に就いたが、客対応や職場の人間関係で悩み、6カ月で退職。「このままでは生きていけない」と思った斉田さんは、障害者手帳と生活保護を申請した。
申請はスムーズだった。申請から1カ月ほどで最初の保護費が入り、1年ほどで新しい仕事であるタクシーの運転手の仕事に就くと、生活保護を卒業した。
再び上京し、今度はデリヘルで働く女性を送迎するドライバーの仕事に就いたが、やはり1年くらいで上司と揉め、退職。「夏の明るい日差しが降り注ぐ沖縄に行けば、何かが変わるのではないか」と思い、なけなしのお金と少ない荷物を持ち、当時付き合っていた女性と南に向かうも、大阪で所持金が尽きて足止めを食らった。
そして流れついた先は、西成だった。
西成では破格に安い月3000円で1Kの部屋が借りられた。しかし沖縄に行きたい斉田さんは、同行する女性に消費者金融での借金を頼み、そのお金で、2人で沖縄に向かうと、沖縄で生活保護を申請。今度は3カ月ほどで卒業するが、すぐにまた仕事を辞め、借金を作り、親を頼って故郷に戻ることになった。
さらに45歳の時、やはりあてもなく福岡に向かい、生活保護を申請したところ、「働くのであれば、住むところを用意できます」と言われた。だが、そのときの斉田さんは働くことができなかった。うつ状態だったのだ。
「朝起きて、決まった時間に決まった場所へ行く。人に挨拶する。指示を聞く。分からなければ質問する。失敗すれば謝る。周囲の人間と関係を作る……。普通の人間にとっては当たり前なのかもしれないことの一つひとつが巨大な壁でした」
働くことができず、一人で生活していくことも難しかった斉田さんは、施設へ送られることになった。
ところが、斉田さんはそこでも馴染めなかった。
「集団生活というものが、どうしても苦しかったのです。人の気配。人の声。誰かと顔を合わせるかもしれないという緊張……。他人と同じ場所で生活しているだけなのに、神経が休まりませんでした」
斉田さんは3日も経たないうちに施設から逃げ出した。
そんな時、ネットで「京都なら、すぐに働けなくても生活保護を受給してくれるらしい」という情報を入手する。
すぐに向かって京都で生活保護を申請すると、ひとまずホテルで生活することになった。
「ホテルの部屋に一人でいると安心しました。古くて何もない部屋でしたが、久しぶりにゆっくり眠ることができました」
それから6年、働けない状態が続いた。

