懸賞金がかけられ、名人が仕留める

最後の事件は多寄村で発生した。

〈上川郡多寄村三十二線の農業堀善蔵は、妻と共に二十三日午前十一時半頃、水田の除草中、突然仔熊を連れた巨熊が現れたので、驚いて逃れようとした妻はたちまち喰い殺され、善蔵は妻を救おうとしたが手に余り、付近の稲乾燥用の架木に登って難を避けようとしたが、熊は追いすがって善蔵を爪にかけて引きずり落とし、顔面その他に負傷を負わせて逃げ去った。付近の人々は善蔵を病院にかつぎ込んだが全治約三週間〉(『北海タイムス』昭和5年7月25日朝刊)

相次ぐ襲撃事件を受け、役場では懸賞金をかけて、この親子熊を追うことにした。そして7月24日未明、温根別南のイヌウシュベツ山中で、熊狩名人伊藤勘五郎と和田誠の両名が見事仕止めた。

加害熊は〈体重六十貫あまりで仔熊を連れており、これは一昨年十一月同村南九線刈別道路において通行人に危害を加え、その後付近に時折出没していた恐ろしい熊で、懸賞付きのこととて直ちに役場より賞金を授与された〉(『北海タイムス』昭和6年5月1日夕刊)。

なぜこの時期に事件が多発したのか

この狂暴な熊は、常に1頭か2頭の子熊を連れており、おそらくそのための排除行動だったのだろうが、現代で言えば「モンスターペアレント」とも言うべき恐るべき人喰い熊であった。

中山茂大『ヒグマ110番』(つり人社)
中山茂大『ヒグマ110番』(つり人社)

ところで、なぜこの時期に、温根別村で人喰い熊事件が多発したのか。

前出のヒグマに襲撃された測量隊一行は、以下の記事が示すように当時、王子製紙が雨龍川上流に計画していた「雨竜第一ダム」の予備調査であったと思われる。

〈昭和の初期(昭和2年頃)、時の王子製紙社長、藤原銀次郎は雨龍発電所の建設計画をたてて駕籠に乗って朱鞠内の山深く精力的に歩いた。昭和6~7年頃であった―朱鞠内湖畔一帯の調査測量中、熊におそわれて負傷した5人の測量隊員が、風連市街地の吉柳病院に入院したことがある〉(『風連町史』)

「雨竜第一ダム」とは、すなわち昭和18年に完成し、日本最大の2373ヘクタールという面積を誇る「朱鞠内湖」のことである。

検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます

【関連記事】
差別はなかった、でもモバイルバッテリーは7回盗まれた…日本人義勇兵が見た「プーチンの軍隊の実情」
地方衰退の一番の原因は「人口減少」ではない…山口の超富裕層が「住民税43億円」をまるっと抱えて移住した理由
大地震でまず確保すべきは水でも食料でもない…被災者が「これだけは担いで逃げて」という最も重要なモノ2選
異民族に3000人の皇族が連れ去られ、収容所送りに…「戦利品」になった女性皇族たちがたどった悲惨な結末
なぜ皇室に1男2女をもたらした「良妻賢母」が嫌われるのか…紀子さまを攻撃する人たちの"本音"