「ブチ殺してやるさ」と笑っていたが…

〈西森正一によれば、この日、被害者の石川は山に行く途中、住職の寺沢皆遵と行き会い、寺沢が熊の足跡があったから気をつけるように伝えると、石川は「なあに、熊のやつ、出てきたら反対にこっちからブチ殺してやるさ」と笑い飛ばした。

翌朝、まだ暗いうちに石川の奥さんが西森家を訪ね、「昨夜から石川が帰ってこない」という。西森の父親が山に行ってみると、トーキビ(トウモロコシ)弁当が散乱し、鋸は木に刺さったままで、そこら中熊の足跡だらけだった。

当時の農家は貧乏で米の飯を食べられる人は少なかった。石川さんもそうで、トーキビを弁当にしていた。それでも腹の中は油が一ぱい浮んでギラギラしていた。(中略)熊は臓物(はらわた)が好きなようで、石川さんの時は首を引きぬいて、そこから手を入れて、はらわたを食べたらしい。

(中略)午前八時頃、沢の中で死体を発見した。鈴木という巡査が検死がすむまで死体をそのままにしておけと言うので首の発見が遅れた。首はうしろの皮だけつけて背中からブラ下がっていた。 西森正一氏談(三宅裕良)〉

捕獲したヒグマの記念写真
捕獲したヒグマの記念写真は数多いが、歌舞伎の、いわゆる「たたら」を踏ませているのは珍しい。『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木 第三集』より転載[出所=『ヒグマ110番』(つり人社)]

子熊を引き連れたメス熊の凶行

この「首なし死体」事件から5年後、同じ温根別村を中心とした一帯で、3年間で2名が喰い殺され、8名が重軽傷を負うという重大事件が起きる。加害熊は常に子熊を引き連れたメス熊であった。

〈雪の降る二十五日朝八時頃、上川郡剣淵村西八線から温根別村九線へ通じる間道を、上川、菅原の両人が通りかかると、すぐ目前に一婦人が倒れ悲鳴を上げて夢中に救いを求めていた。見ると着衣は流血に染まり、その前に一頭の巨熊が座っていた。(中略)最初熊に傷つけられてから約二十間くらい、熊に追われつつ逃げた形跡があり、その間は血痕雪に染み、路辺の笹に血潮は飛び散り、頭髪に肉片の付着した着衣布片が付近に散らばり、数個所にややしばらく倒れていた模様であった。後頭部の頭髪及び皮肉はほとんどなく、右手指右背部に大裂傷あり、また臀部上方にも余程の裂傷があり、身体各所は爪穴で出血甚だしく、瀕死状態であった。婦人は温根別村八線、元屯田兵妻、増永イヨ(五一)で、剣淵市街地へ子供の百ヶ日忌のため僧侶を頼みに単身歩行中であった。イヨは七線風防林付近まで担いで行った時に絶命した〉(『北海タイムス』昭和3年11月29日朝刊)