ナイチンゲールの問題転換

問いの転換が現実を大きく変えた例として、19世紀半ばのクリミア戦争での戦場医療がある。

野口悠紀雄『AIは最強の味方で、最悪の敵』(プレジデント社)
野口悠紀雄『AIは最強の味方で、最悪の敵』(プレジデント社)

当時の野戦病院では、負傷兵の死亡率の高さが深刻な問題だった。そのため、関心は「負傷した兵士をどのように治療するか」に集中していた。そして、「治療技術を高度化すれば、死亡率は下がるはずだ」と考えられていた。

しかし、「近代看護の母」と呼ばれ、統計学にも明るかったフローレンス・ナイチンゲールは、まったく異なる問いを立てた。それは、「兵士は戦傷によって死んでいるのか、それとも環境によって死んでいるのか」という問いだった。

統計学者ウィリアム・ファーの協力を得て、統計データを用いて分析した結果、死因の多くは、戦傷そのものではなく、感染症や不衛生な病院環境にあることが突き止められた。

ここで決定的だったのは、治療の方法を工夫したことではなく、問題の定義を変えたことである。その結果、目標は「治療技術の向上」から「衛生環境の改善」へと移り、死亡率を劇的に低下させることにつながった。

以上のことから導かれる教訓は明白だ。

誤った問いに対して、どれほど精密な答えを与えようとしても、本質的な前進は得られない。問いが誤っていれば、答えは「洗練された誤り」にしかならない。

しかし、問いの立て方を変えれば、それによって解かいの空間が広がり、不連続的な飛躍が生まれることがある。

AI時代に求められる知的態度

誤った問いのもとでは、どれほど高度な技術を使っても、せいぜい部分的な改良しか得られない。

AIを「先生」として使う場合、得られるのは、与えられた問いに対する最適解だ。しかし、AIを「同僚」として使えば、問いの前提を疑い、別の見方を提示し、試行錯誤を通じて「より良い問い」を探索することができる。

もちろん、問いを変えても失敗することはある。しかし、問いを変えることによって初めて、これまで見えていなかった解の可能性が開かれる場合は、思いのほか多い。

AI時代に本当に求められるのは、どのような問いを立て、どんな目標を設定するかを、AIとともに探究する知的態度だ。

現代社会においては、「問いの転換」を一人で行なう必要はない。仮説の列挙、視点の切り替え、前提条件の洗い出しといった作業は、生成AIが最も得意とするものだからだ。

問いが与えられれば、AIは、従来利用可能だった手段とは比較にならないほど短い時間で答えを出す。だから、正しい問いを立てることの意味は、従来に比べてはるかに重要度を増しているのである。

AIは、問いの鏡である。

浅い問いには浅い答えしか返さないが、深い問いに対しては、それに相応した深い答えを返す。重要なのは、人間がAIに何を問うかである。