「家康が結婚を望んだ」という書状

また秀吉が家康を懐柔し、上洛させるために妹の朝日を嫁がせたという見方がなお強いですが、それに対する反証もあります。秀吉は天正14年(1586)5月24日付の書状において「家康の事、種々縁辺等の儀迄懇望せしめ候」と述べているからです。縁組のことは秀吉側ではなく、家康が「懇望」(熱心に希望した)と言うのです。

天正12年(1584)に秀吉と織田信雄(信長次男)・徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが勃発しますが、戦後も家康は秀吉になかなか服従しませんでした。それを受けて秀吉は家康を討伐することを計画していましたが「天正地震」(1585年11月)の影響もあり、それを断念。武力によって家康を屈服させることを諦め、穏和な手段に切り替えます。

既に秀吉に臣従していた織田信雄の説得もあって家康は秀吉に臣従することを決断しますが、家康が提案した条件(そのうちの1つが秀吉の妹・朝日姫を正室に迎える)を秀吉が受け入れたことも臣従に影響したと考えられます。家康は秀吉の妹・朝日姫を正室に迎えることにより、秀吉の義弟となって、豊臣政権下で高い政治的地位を占めることを企図したのでした。

朝日姫の葬儀に家康は来なかった

当時、朝日姫は44歳、家康は45歳でした。朝日姫は駿河府中へと入り、「駿河御前」と呼ばれるようになります。しかし、家康と朝日姫との結婚生活は長くは続かず、天正18年(1590)に朝日姫は京都において病死してしまいます。前年4月頃から病になっていたようです。

家康が本拠地とした駿府城跡(静岡市)
撮影=木村直軌
家康が本拠地とした駿府城跡(静岡市)

朝日姫が死去しても家康が上洛して葬儀を営むことはなかったとのこと。これは結婚生活が短く、しかも別居状態でもあったので、愛情が薄かったからとも推測されています(とはいえ、家康は京都東福寺の塔頭の南明院に霊殿や宝殿などを建立しています)。秀吉と家康によって人生を翻弄された朝日姫は何を思いつつ、この世を去ったのでしょうか。

参考文献
・黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』(KADOKAWA)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)

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