家康との再婚前に離婚していた?

朝日姫と副田との関係について記したものには『武家事紀』もあります。同書は江戸時代前期の儒学者・軍学者の山鹿素行が著した歴史書であり、寛文13年(1673)に成立しました。その『武家事紀』にも秀吉の妹は副田甚兵衛の妻であるとの記述があります。注目すべきは同書には朝日姫が徳川家康に嫁すため、副田と離縁させられたと書かれていないことです。

同書によると、秀吉によって離縁はさせられたのですが、それは朝日姫が家康に嫁ぐよりももっと前のこと(朝日姫と家康の結婚は天正14年=1586年のことです)。天正10年(1582)、織田信長は本能寺において家臣・明智光秀に討たれますが、その頃までに副田は但馬国二方郡多伊城に在城していました。ところが副田は本能寺の変に伴い、播磨国(現在の兵庫県南西部)に出兵、その隙に一揆が起こり、多伊城を一揆勢に攻め取られてしまうのです。

大阪城豊國神社の豊臣秀吉像
写真=iStock.com/coward_lion
大阪城豊國神社の豊臣秀吉像

城を取られた義弟に秀吉が激怒

その後、宮部継潤の活躍により多伊城は奪還されますが、同城を奪われた副田への秀吉の怒りは深かったようです。秀吉の不興を買った副田は、妻・朝日を奪われてしまうのでした。つまり秀吉により離縁させられたと『武家事紀』にはあるのです。

しかし、朝日姫と離縁した後も副田は秀吉に仕えたと同書には記されています。『武家事紀』は朝日姫とその夫・副田の離縁を家康に朝日が嫁ぐことに求めておらず、天正10年(1582)頃のこととするのです。『武家事紀』のこの内容は、一次史料で確認することはできませんが「そうした事態は、十分にありえたように思われる」との見解もあります(黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA)。

『改正三河後風土記』や『尾張志』の成立は江戸時代後期ですが、『武家事紀』の成立は江戸時代前期。成立年代を考えれば、3書のうちで最も信頼できるのは『武家事紀』ということになります。『武家事紀』の記述を本当のこととして受け止めるとしたら、秀吉が家康を従属させるため、朝日と副田を離縁させたという一般的見解は誤りということになります。