※本稿は、松永正訓『大学病院の正体 手術、人事、教育、研究のすべて』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
最低3人立候補しないと成立しない
瞳の中にゴーッと炎を燃やして、何が何でも教授になりたい、なってやると思っている医者は、そうはいない。教授になりたくて仕方なくて、そのことを公言する人を、確かにぼくは以前に見たことがあるが、そういう医師はまれである(めでたいことにその人は晴れて教授になった)。
ただ、人間って目の前に壁があると登りたくなる生き物のようで、教授選考会が行われると、その科の准教授や講師の医師は普通は立候補する。教授選は最低3人立候補しないと成立しない。全国公募の形を取るので、自大学からも他大学からも立候補者が現れる。
成人の外科とか内科とかの大きな科ではすぐに自分の教室から3人以上の候補者が揃うが、小児外科みたいな小さな科の場合は、学内で3人が埋まることはない。他大学などから候補が集まって教授選が行われるという流れだ。
千葉大医学部というのは、歴史的には1874年(明治7年)にルーツがあるそうだ。まじか。1923年(大正12年)には千葉医科大学という大学に昇格したらしい。通称は「千葉医大」で、この名称はぼくが東京で高校生だった1980年頃にも耳に届いてきていた。
『白い巨塔』財前五郎のモデルとも言われる医師
千葉医大の頃は、教授陣を東大出身者が占めていたらしい。いわば東大の植民地だったわけだ。そこに颯爽と現れたのが食道外科の世界的権威・中山恒明先生だ。先生は、1947年(昭和22年)に、千葉医大出身者として初めて千葉医大の教授になった。第二外科教授として民族派の星が誕生したのである。当時の中山先生は、世界で成功した食道がんの手術の半分を自分の手でやっていた。『白い巨塔』の若き食道がんの権威・財前五郎のモデルとも言われている(野上孝子『山崎豊子先生の素顔』文春文庫、2018年)。
さて、ここから千葉大医学部は、自前の教授がどんどん増えていき、1990年頃にはほぼ100%が千葉大出身であった。しかし大学院重点化の波などを経験し、優秀な人であれば外部からも教授を採用するようになった。この傾向がしばらく続き、2000年頃には千葉大出身者と外部の大学出身者が半々くらいになった。
他大学出身の教授たちは、自分たちのことを「外人部隊」と呼んでいた。あれって、プライドなのか、それとも自虐か。でも、超絶優秀な人が揃っていたのはまちがいない。教授会ではこうした状況に危機感を持つ人もいた。せめて過半数は千葉大出身で固めたいという思惑が教授選で働いたと聞く。

