織田信成選手の先祖は七男・信高?

信長の七男・織田信高は、本能寺の変の際には美濃におり、大垣城主・氏家行広(卜全の子)に養われ、下野宇都宮で蟄居していたという。天正13(1585)年に秀吉に招かれ、近江国神崎郡のうちに1060石を賜り、のち加増され、2000石を領す。『寛政重修諸家譜』によれば、関ヶ原の合戦では徳川方につき、子孫は旗本に列した。

フィギュアスケートでオリンピックに出場した織田信成氏は、その名が示すように、信長の子孫(信長の七男・織田信高の子孫)を名乗っている。信成氏の家が公表した家系図によれば、初代・信高から九代の信真までを掲げ、信真から信成氏の祖父までを省略している。その間は個人情報の関係で伏せているとのことだ。なぜ、信真まで掲げているのかといえば、図書館で信高の子孫を調べれば、そこまではたどり着けるからだろう。なぜ信成氏の祖父までは開示できて、それ以前が開示できないのか。そのロジックには首を傾げざるを得ない。

影の薄い六男と八男以下

信長のその他の息子たちは、ほとんど実績らしい実績がない。

六男信秀は、信長の父と同じ名前である。歴史研究者の小和田哲男氏は「名乗りは祖父と全く同じである。信長が命名にあたって、なぜ父と同じ名前にしたのかはわからない」(『織田家の人びと』)と記しているが、元服は本能寺の変の後だと考えられ、いみなを決めたのは秀吉と思われる。後述の八男・信吉同様に秀吉が「秀」の字を与えたと考えれば、分かりやすい。

八男信吉のぶよしは同母兄・信高とは異なり、関ヶ原の合戦で毛利・石田方に属したため、所領を没収された。徳川家康の四男・松平忠吉、五男・武田信吉はともに秀吉が「吉」の字を与えたといわれている。同様に信吉も秀吉の偏諱を受けた可能性が高い。

九男信貞は本能寺の変で難を逃れ、秀吉に属して近江国神崎郡・蒲生郡のうちに1000石を賜った。関ヶ原の合戦では兄・信高と相談して徳川方につき、子孫は旗本に列した。ちなみに信貞は信長の祖父と同じ名前である。六男に信長の父と同じ名前を付けてしまったので、信貞と名付けたのだろう。あの秀吉ならやりかねない。

織田信貞(九男)像(岐阜市歴史博物館所蔵)、柏原町歴史民俗資料館編『織田物語 その姿と歴史』より
織田信貞(九男)像(岐阜市歴史博物館所蔵)、柏原町歴史民俗資料館編『織田物語 その姿と歴史』より(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

10男信好のぶよしには特段、事績が伝わっていない。

11男長次ながつぐは『寛政重修諸家譜』によれば、関ヶ原の合戦では兄・信高を介して、帰陣する家康に赦され(=反徳川軍だったらしい)、討ち死にした。

この成り行きを見れば、信長の子どもたちはいずれも凡庸だったと言わざるを得ない。実際は世評より有能だったのかも知れないが、信長が不世出の英雄だったので霞んでしまうのはムリもない。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。