大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)ではいよいよ秀吉が天下人に。系図研究者の菊地浩之さんは「信長には少なくとも11人の息子がいたが、長男と五男は本能寺の変で死去し、次男と三男が跡目を争ったが、結局は父の家臣の秀吉には勝てなかった」という――。

信長には息子が“11人いる!”

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では本能寺の変で織田信長が討たれ、凡庸な子どもたち、信長の次男・織田信雄と三男の織田信孝の権力闘争が繰り広げられつつある。「豊臣兄弟」では四男の秀勝までしか登場しないが、信長は11男11女の子だくさんだったといわれている。

信長の長男・織田信忠は兄弟の中で比較的優秀だったらしい。天正3(1575)年には信長から織田家の家督を譲られて尾張・美濃の2カ国を与えられた。天正10(1582)年2月の武田攻めの総指揮を任されたが、同年6月2日の本能寺の変で、京都妙覚寺に宿営していた信忠は二条城に籠もり自刃してしまう。

信長は長男以外の待遇にはあまり気を留めなかったらしい。永禄11(1568)年から翌永禄12年にかけ、信長は伊勢の諸城を落とすと、国衆との和解のため、三男の織田信孝を神戸具盛かんべとももり(友盛ともいう)の養子とし、次男・織田信雄(のぶを、のぶかつとも読む)を伊勢国司・北畠具教きたばたけとものりの婿養子とした。

織田信長が1578年に安土城で行った相撲大会の想像図(両国国技館の壁画)。信長の左右に描かれているのは息子たちか
織田信長が1578年に安土城で行った相撲大会の想像図(両国国技館の壁画)。信長の左右に描かれているのは息子たちか(写真=Yukikaze1234/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

次男と三男はどちらが優秀だったか

信忠が信長から織田家の家督を譲られると、信雄・信孝兄弟はその指揮下に入った。天正7(1579)年に信雄は7000の兵を率いて伊賀に出兵して敗北を喫した。父・信長に無断の単独行動だったから、きつい叱責を受け、しばらく謹慎を余儀なくされた。

比較的優秀といわれた信孝は、信長に対してたびたび四国征伐を申し出、天正10(1582)年5月に四国国分くにわけが定められ、三好山城守の養子になって、四国に攻め入る算段となった。ところが、その翌月に本能寺の変が起こり、信孝軍は四散してしまう。信孝は山崎の合戦で総大将に祭り上げられたが、清須会議で信忠の遺児・三法師(秀信)が擁立され、信孝は美濃岐阜城を分与されるにとどまった。

一方、信雄は居城の伊勢松ヶ島城におり、すぐさま伊賀を経て近江甲賀郡まで出陣したが、伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、軍を進めることに躊躇してしまう。

清須会議の後、秀吉は岐阜城の信孝に三法師を預けた。後日、三法師は安土城に移される約束だったが、信孝はその約束を守らず、柴田勝家と組んで秀吉との対立を深めていく。羽柴秀吉は対抗上、信雄の擁立へと動いた。

天正11(1583)年4月の賤ヶ岳の合戦で勝家は敗北して自刃。信孝も5月に切腹させられた。

次男・信雄の日和見な生き方

「豊臣兄弟!」の第34話(9月6日放送)でも描かれるようだが、天正11年9月になると、秀吉は織田家の上に立つことを明らかにした。大坂城を築城して旧織田家臣、および織田信雄らに上洛出仕を求めたのだ。これに対して信雄は上洛せず、徳川家康と同盟を組むことで対抗。翌天正12年、小牧・長久手の合戦へと流れ込んだ。局地戦で信雄・家康連合軍は秀吉軍に勝利したが、膠着状態に陥り、信雄は勝手に秀吉と講和してしまう。

織田信雄(次男)の肖像画・部分(総見寺所蔵)
織田信雄(次男)の肖像画・部分(総見寺所蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

天正18(1590)年の小田原合戦後、小田原北条家が治めていた関八州に徳川家康が転封となり、信雄はその旧領に転封を命ぜられる。しかし、信雄は尾張・伊勢に留まりたいとその命を拒んだため、秀吉の怒りを買い、下野烏山2万石に大幅減封される。翌天正19年には出羽秋田に配流はいるとなるが、文禄元(1592)年に秀吉の御はなし衆に呼ばれてちゃっかり復帰。

慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦ではひそかに家康につき、晩年は従姉妹いとこの淀殿(豊臣秀頼の母)を頼って大坂城にあったが、大坂冬の陣直前の慶長19(1614)年9月に大坂城から退去した。そして、大坂夏の陣では徳川方へつき、大和国宇陀郡および上野国甘楽・多胡・碓氷郡において5万石を賜り、子孫は大名として存続した。

【図表】織田信長の息子たち
筆者作成

本能寺の変で死んだのは長男だけではない

織田研究の谷口克広氏によれば、出生順も巷間伝わっている順番でない可能性が高いという。ただし、ここでは煩雑さを除くため、『寛政重修諸家譜』の出生順で述べていく。

信長の五男・津田信房(一般には武田勝長)は、はじめ美濃岩村城の遠山景任かげとうの養子となったが、元亀3(1572)年11月に武田家臣・秋山虎繁とらしげが岩村城を陥落させ、信房を人質として甲斐に送還する。天正7(1579)年に武田勝頼は外交方針を転換。人質・信房を織田家に返還することで局面の打開を図った。信房は織田家に戻され、犬山城主・池田恒興の婿養子となった。

当時、恒興は摂津で荒木残党の掃討作戦を主導、鎮圧後に摂津を与えられていた。信長は恒興を摂津に移し、信房を犬山城主に据えることで犬山城を織田家の直轄地として回収したのだ。天正9年11月、信房は安土に赴き、父・信長と9年ぶりに再会したが、翌天正10年6月、本能寺の変で兄・信忠とともに二条城で討ち死にした。

歌川国芳が織田信孝(三男)をモデルに描いた『太平記英勇傳:丹部侍従平春高』、江戸時代(1849年)
歌川国芳が織田信孝(三男)をモデルに描いた『太平記英勇傳:丹部侍従平春高』、江戸時代(1849年)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉の養子になった四男の死

信長の四男・羽柴於次秀勝おつぎひでかつは、天正5(1577)年頃に羽柴秀吉の養子になった。当時、秀吉は姫路城に入って中国経略を進めていたが、秀勝は近江長浜城にしばらく留まっていたらしい。つまり、信長は、近江長浜城主の秀吉を播磨に移し、秀勝を秀吉の養子にして長浜城主に据えたのであろう。遠方に派遣する有力部将に、信長の子どもを養子に送り込んで、居城の留守をさせる(その後に回収させる)。この構図は池田恒興と信房にも見た事例である。

秀吉が三法師(信忠の嫡子・秀信)を推したため、すっかり忘れ去られているが、清須会議で柴田勝家が一番警戒したのは、秀勝を信長の後継者に推すことだったのではないか。しかし、秀吉は秀勝を主君の遺児として遇していないように思える。清須会議の後、柴田勝家が長浜を通って北ノ庄城に戻ることに警戒したため、秀吉は秀勝を勝家の人質として差し出しており、将棋の駒のように使っているのだ。秀勝は天正13年に死去。享年わずか18(数え年)だった。

狩野随川画「豊臣秀吉像」
狩野随川画「豊臣秀吉像」名古屋市秀吉清正記念館蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

織田信成選手の先祖は七男・信高?

信長の七男・織田信高は、本能寺の変の際には美濃におり、大垣城主・氏家行広(卜全の子)に養われ、下野宇都宮で蟄居していたという。天正13(1585)年に秀吉に招かれ、近江国神崎郡のうちに1060石を賜り、のち加増され、2000石を領す。『寛政重修諸家譜』によれば、関ヶ原の合戦では徳川方につき、子孫は旗本に列した。

フィギュアスケートでオリンピックに出場した織田信成氏は、その名が示すように、信長の子孫(信長の七男・織田信高の子孫)を名乗っている。信成氏の家が公表した家系図によれば、初代・信高から九代の信真までを掲げ、信真から信成氏の祖父までを省略している。その間は個人情報の関係で伏せているとのことだ。なぜ、信真まで掲げているのかといえば、図書館で信高の子孫を調べれば、そこまではたどり着けるからだろう。なぜ信成氏の祖父までは開示できて、それ以前が開示できないのか。そのロジックには首を傾げざるを得ない。

影の薄い六男と八男以下

信長のその他の息子たちは、ほとんど実績らしい実績がない。

六男信秀は、信長の父と同じ名前である。歴史研究者の小和田哲男氏は「名乗りは祖父と全く同じである。信長が命名にあたって、なぜ父と同じ名前にしたのかはわからない」(『織田家の人びと』)と記しているが、元服は本能寺の変の後だと考えられ、いみなを決めたのは秀吉と思われる。後述の八男・信吉同様に秀吉が「秀」の字を与えたと考えれば、分かりやすい。

八男信吉のぶよしは同母兄・信高とは異なり、関ヶ原の合戦で毛利・石田方に属したため、所領を没収された。徳川家康の四男・松平忠吉、五男・武田信吉はともに秀吉が「吉」の字を与えたといわれている。同様に信吉も秀吉の偏諱を受けた可能性が高い。

九男信貞は本能寺の変で難を逃れ、秀吉に属して近江国神崎郡・蒲生郡のうちに1000石を賜った。関ヶ原の合戦では兄・信高と相談して徳川方につき、子孫は旗本に列した。ちなみに信貞は信長の祖父と同じ名前である。六男に信長の父と同じ名前を付けてしまったので、信貞と名付けたのだろう。あの秀吉ならやりかねない。

織田信貞(九男)像(岐阜市歴史博物館所蔵)、柏原町歴史民俗資料館編『織田物語 その姿と歴史』より
織田信貞(九男)像(岐阜市歴史博物館所蔵)、柏原町歴史民俗資料館編『織田物語 その姿と歴史』より(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

10男信好のぶよしには特段、事績が伝わっていない。

11男長次ながつぐは『寛政重修諸家譜』によれば、関ヶ原の合戦では兄・信高を介して、帰陣する家康に赦され(=反徳川軍だったらしい)、討ち死にした。

この成り行きを見れば、信長の子どもたちはいずれも凡庸だったと言わざるを得ない。実際は世評より有能だったのかも知れないが、信長が不世出の英雄だったので霞んでしまうのはムリもない。