次男・信雄の日和見な生き方

「豊臣兄弟!」の第34話(9月6日放送)でも描かれるようだが、天正11年9月になると、秀吉は織田家の上に立つことを明らかにした。大坂城を築城して旧織田家臣、および織田信雄らに上洛出仕を求めたのだ。これに対して信雄は上洛せず、徳川家康と同盟を組むことで対抗。翌天正12年、小牧・長久手の合戦へと流れ込んだ。局地戦で信雄・家康連合軍は秀吉軍に勝利したが、膠着状態に陥り、信雄は勝手に秀吉と講和してしまう。

織田信雄(次男)の肖像画・部分(総見寺所蔵)
織田信雄(次男)の肖像画・部分(総見寺所蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

天正18(1590)年の小田原合戦後、小田原北条家が治めていた関八州に徳川家康が転封となり、信雄はその旧領に転封を命ぜられる。しかし、信雄は尾張・伊勢に留まりたいとその命を拒んだため、秀吉の怒りを買い、下野烏山2万石に大幅減封される。翌天正19年には出羽秋田に配流はいるとなるが、文禄元(1592)年に秀吉の御咄はなし衆に呼ばれてちゃっかり復帰。