次男・信雄の日和見な生き方
「豊臣兄弟!」の第34話(9月6日放送)でも描かれるようだが、天正11年9月になると、秀吉は織田家の上に立つことを明らかにした。大坂城を築城して旧織田家臣、および織田信雄らに上洛出仕を求めたのだ。これに対して信雄は上洛せず、徳川家康と同盟を組むことで対抗。翌天正12年、小牧・長久手の合戦へと流れ込んだ。局地戦で信雄・家康連合軍は秀吉軍に勝利したが、膠着状態に陥り、信雄は勝手に秀吉と講和してしまう。
天正18(1590)年の小田原合戦後、小田原北条家が治めていた関八州に徳川家康が転封となり、信雄はその旧領に転封を命ぜられる。しかし、信雄は尾張・伊勢に留まりたいとその命を拒んだため、秀吉の怒りを買い、下野烏山2万石に大幅減封される。翌天正19年には出羽秋田に配流となるが、文禄元(1592)年に秀吉の御咄衆に呼ばれてちゃっかり復帰。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦ではひそかに家康につき、晩年は従姉妹の淀殿(豊臣秀頼の母)を頼って大坂城にあったが、大坂冬の陣直前の慶長19(1614)年9月に大坂城から退去した。そして、大坂夏の陣では徳川方へつき、大和国宇陀郡および上野国甘楽・多胡・碓氷郡において5万石を賜り、子孫は大名として存続した。