首は堺の町にさらされた

信澄は自ら切腹したという説と、彼の家臣によって殺されたとの説がフロイス『日本史』に人々の噂として記されています。信澄を殺した信孝は従兄弟の首を堺の市にさらすことを命じました。しかし、同書には信澄は「異常なほど残酷で」「暴君」と記されており、その死を悲しむ者はいなかったとのこと。多くの人は信澄が「死ぬことを望んでいた」と言います。この記述の正否は不明ですが、光秀の娘を娶ったばかりに殺された哀れな最期には違いありません。

筆者は本能寺の変は、いわゆる黒幕などおらず、光秀の単独行動だったと考えています。例えば『信長公記』には本能寺の変の直前、光秀は重臣(明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐)らと「談合」して、信長を討ち果たし「天下の主」となるべき謀を企てたとあります。

光秀はおそらく信澄には相談しなかったのではないでしょうか。娘婿とは言っても信澄は信長の甥です。仮に光秀が信澄に相談した場合、そこから情報が信長側に漏れる場合もあります。政略に長けていた光秀がそのようなことをするとは思えません。本能寺の変は、明智主従のみで秘密裏に実行されたからこそ、信長と他の家臣たちの隙を突き、成功したのでしょう。

楊斎延一画『真書太閤記 本能寺焼討之図』、明治26年(1893)
楊斎延一画『真書太閤記 本能寺焼討之図』、明治26年(1893)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。