蘭奢待を求める奈良行きにも同行

さて、『寛政重修諸家譜』によると、永禄7年(1564)、信澄は元服、津田氏を称したとありますが、これは誤りとされます。信澄も信広のように、織田軍の軍事行動に従ったり、また信長が他国に出かける際にはそれに同行したりしています。例えば天正2年(1574)3月、信長は正倉院に収蔵されている名香「蘭奢待らんじゃたい」を観覧するため、大和国に赴きました。その時に信澄は「御奉行」として同行しているのです(『信長公記』)。

香木の蘭奢待、東大寺正倉院所蔵
香木の蘭奢待、東大寺正倉院所蔵(写真=『東瀛珠光 第3集』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

翌年8月には越前一向一揆の征伐に信澄も従軍しますが、これが彼の初陣と推測されます。この戦で信澄は柴田勝家・丹羽長秀と共に鯖江の鳥羽城を攻撃し、500~600もの敵兵の首を獲るとの戦果を挙げました。天正4年(1576)、信長は近江国で安土城の築城に着手しますが、信澄もそれに関与しています。その際、信澄は大きな石を山の麓まで運んできたようです。その大きな石は「蛇石」と称せられる「名石」でした。