浅井・朝倉の絆は深くなかった

なぜ、ここで浅井家が出てくるかといえば、浅井家は六角家の支配下にあり、浅井長政(当時は賢政)は六角家重臣・平井定政の娘を娶っていたが、永禄2(1560)年に離縁して六角家支配から脱却しつつあったのだ。

一説には、浅井家が「六角氏従属下からの離脱を決断したのは、浅井氏家中の支えがあってのことであろうが、六角氏と対立するにはそれなりの戦力や、いざというときの後ろだても必要だったはずである。浅井氏が『後詰』を求めて朝倉氏と国衆・戦国大名間の従属関係を結んだのは、まさにこのときだったのではないだろうか」(長谷川裕子「浅井長政と朝倉義景」『歴史の中の人物像』所収)という見方もあるが、少なくとも永禄3年にはまだ「朝倉氏は浅井氏と関係を深め」ていなかったのだ。