家康は側面攻撃で朝倉軍を破った

甫庵『信長記』によれば、信長は敵陣の松明たいまつの移動で翌朝の合戦を悟り、急きょ議を開いて家康を先陣に決めた。かくして、6月28日のの刻(午前6時)、浅井・朝倉軍が3.3kmほど間合いを詰め、姉川を前にして野村・三田村郷(滋賀県長浜市野村、および三田村)まで出陣し、二手に分かれた。三田村の朝倉軍に家康が向かい、野村の浅井軍に信長の旗本衆、および美濃三人衆が一団となって敵に攻めかかった。

朝倉軍は家康本陣に迫る勢いであったが、家康は榊原康政らに側面攻撃を命じて朝倉軍を破った。織田軍は浅井軍の猛攻でピンチとなったが、家康は稲葉良通(嶋尾康史)に対して浅井軍の側面攻撃をアドバイス、自らも攻撃に加わった(稲葉は織田軍の後詰めで戦陣に加わっていなかったらしい)。

やがて浅井・朝倉軍は総崩れとなって退却。逃げる敵を討ち取るのはたやすく、織田・徳川軍の大勝利に終わった。『信長公記』では敵兵1100余を討ち取ったとあるが、一説には8~9000人の死者が出たともいわれる。

姉川古戦場跡
写真=photolibrary/R. Amami
姉川古戦場跡

姉川の戦いはどう評価されたか

姉川の合戦の評価については、渡辺大門編『信長軍の合戦史』所収の太田浩司「姉川合戦と戦場の景観」がまとめているので、それをもとに各研究家の見解を記述しておこう。

・藤本正行氏は、戦国大名同士が広々とした場所で正面から衝突した異例の合戦と評す(『信長の戦争』)。

・河合秀郎氏は、信長が浅井・朝倉氏を徴発して合戦に持ち込んだと説く(『日本戦史 戦国編』)。

・太田浩司氏は、姉川合戦の本質は浅井長政軍による織田信長馬廻りへの「奇襲」とする(『浅井長政と姉川合戦』)。

・桐野作人氏は、浅井・朝倉両軍の仕掛けに、信長が不利なのを承知で旗本馬廻りのみで受けて立ったというのが実情だと述べる(桐野作人『織田信長』)。

・佐藤圭氏は、信長が将軍足利義昭と共同して、あらかじめ決戦の日を6月28日と決め、姉川合戦は織田信長と足利義昭の強度作戦であったと考える(「姉川合戦の事実に関する史料的考察」『若越郷土研究』第五九巻一号)。