側室の娘が秀長の甥と結婚した
伝左衛門は、大和郡山城にいて秀長の側近(横浜良慶や小堀正次)と活動していましたが、天正20年(1592)4月に75歳にて病没しています。
摂取院は秀長が亡くなった後に出家。元和8年(1622)に71歳で死去しました。これが正しいとするならば、その生まれは天文21年(1552)ということになります。秀長の生まれが天文9年(1540)とされていますので、秀長の方が12歳も年上ということになります。
前述の秀長の後継・羽柴秀保の妻となったのが、この摂取院と秀長の間に生まれた娘とされます。摂取院の他にも秀長の妻妾はいたと推測されていますが、詳しいことは分かっていません。
秀長も秀吉のような女好きだったか
さて、秀長の兄・秀吉と言うと、無類の女好きとしてこれまで時代劇などで描かれてきました。しかしそれは何も根も葉もないことではなく、それなりの根拠があります。1つは、天正19年(1591)12月に秀吉が甥で関白の秀次に与えた訓戒状です。
そこには「内裏方」(朝廷)には懇ろに接し奉公すること、法度を堅く申し付け、それに背く者あらば依怙贔屓なく「糺明」することなどのアドバイスが記されていますが、それだけの内容ではなく「茶湯・鷹野の鷹・女狂ひに好き候事、秀吉真似こはあるまじき事」とも書かれているのです。つまり茶の湯や鷹狩りにうつつを抜かすことや「女狂い」については秀吉の真似はしてはならぬと諭しているのです。ここから秀吉は自分のことを「女狂い」(女好き)と認めていたことが分かります。
続けて秀吉は秀次に対し、自分の屋敷内で「使い女」を5人でも10人でも置いておくのは構わない。だが、外でみだりに「女狂い」や鷹狩り、茶の湯にうつつを抜かすのは良くないと戒めているのです。