熊本で書いた本の印税5200万円

そしてこの手紙には、当時のハーンの猜疑心の強さもよく表れています。2作目の『東の国から』が、1895年に出版され、ハーンの日本理解はさらに深みを増しているとの評判で、彼の名前は全米に知れ渡りました。いっそう自信が強まるのと同時に、自分の名声を目当てに他人が近づいて来るのではないかと、神経質に警戒するようになっていました。

『神戸クロニクル』の仕事は目を痛めたため3カ月ほどで退社しました。そして視力が回復しても、文筆だけで身を立てようと考え、チェンバレンが紹介してくれた教員の仕事を断ります。

この年の原稿収入は1300円(現在の約5200万円)あったので、ハーンが自信を持ったのも当然のことだったのでしょう。

ハーンのところへ、その後の彼の日本での生活に決定的な影響を与えることとなる手紙が舞い込んだのは、1895年の12月の初め頃と思われます。

東京帝国大学講師のオファー

「帝国大学英文学教授の職を受けていただけるでしょうか?」という問い合わせがチェンバレンから届いたのでした。(実際には講師でしたが教授と同等の待遇を受けました。)

「とにかく、わたくしが申し上げてよいと思うことは、あなたの勤務に関する限り、地方より今度の職務のほうがずっと楽しいものだということが、あなたにおわかりいただけるだろう、ということです。何となれば、教授たちは大いなる独立性を持っており、わずらわしい環事や暴政がかれらにどのようにもかかわり得るはずがないからです。」

「いずれにしても、あなたをお迎えすることができれば、学生たちにとって大変な幸運であると確信しています。それにおそらく日本の帝国大学教授の肩書は、あなたの著書の題扉を飾るのにも、けっして悪いものではないでしょう。外山も言い、またすべての人々が認める事実として、あなたがご自身の功績だけで十分に独立してやってゆけることはもちろんといたしましても。」

バジル・ホール・チェンバレンの肖像画
バジル・ホール・チェンバレンの肖像画(写真=http://www.auelib.aichi-edu.ac.jp/lib/cs/collection.html/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons