※本稿は、工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(毎日文庫)の一部を再編集したものです。
熊本へ行ったのは高給が理由か
ハーンとセツが松江を去り、熊本へ行ったのは1891年の11月でした。とても松江を気に入っていたのですが、同地の寒さが身体にこたえたのと、熊本の第五高等中学校が、月俸200円(現在の人件費の価値で1円が4万円として約800万円、年収約9600万円、以下同)と、松江の倍の給料を提示したためといわれています。
考えてみれば、ハーンはこの2年前まで熱帯の島に住んでいたのですから、身体の方が急激な気温の変化についてゆけなかったのは当然です。どうもハーンは日本の寒さに怯えすら感じていたようです。1891年の8月にチェンバレン(イギリスの日本研究家、東京帝国大学文学部名誉教師)に出した手紙では鳥取県にある東郷池を訪ねた印象を次のように書いています。
「冷たい風はわたくしには身を突き通すばかりにこたえ、病気になってしまいます。が、これはわたくしの異常体質のせいかもしれません。熱帯で暮らした者にとっては、稲田の冷気は高熱と死を意味します。」
これが真夏の8月に書かれた手紙だけに、いかにハーンが冷気に神経質になっていたかがわかります。
「ここは面白味のない土地」
妻のセツと彼女の養父母まで連れて赴任した熊本でしたが、松江のようにたちまち夢中になって惚れ込むというわけにはゆきませんでした。到着早々に、この就職を世話してくれたチェンバレンに宛てた手紙で、すでに不満を述べています。
「長いこと住んでしまったあとでは、出雲から出て旅をしなければ出雲が他の土地柄――たとえばこの熊本の国と、どれほど完全に異なっているかがわかりません。松江は熊本よりも、比べものにならぬほどきれいで、立派に造られ、あらゆる点で興趣深いところです。」
と書いて、さらに次のように具体例を挙げています。
「ここは面白味のない土地のようです。そして、きょうは、まるで地獄のように寒いのです。何もかもが、非道なほどに高価で、あの出雲の人々の心を魅する純朴さは、ここにはありません。わたくしの家族の者たちは――わたくしと一緒に四人来ているのですが――陸に上がった魚みたいな気分です。先日の朝、わたくしの愛妻は、びっくりした、おかしな眼つきをして、お隣さんの庭に、珍しいけだもの(mezurashii kedamono)がいます、と言うのです。わたくしたちが覗いてみますと、その不思議な動物とは、ヤギのことでした。ガチョウも驚異の的ですし、ブタも同様です。これらの生き物たちは、出雲では全然見られないのです。」
わずか3年で熊本を去った
初めからハーンが生理的に熊本という土地を受け入れられなかった様子をじゅうぶんにしのばせる描写といえます。それでも3年間、教壇に立った後に、1894年には神戸へ居を移すことを決めます。この前年にはセツとの間に長男の一雄が誕生していました。
熊本時代のハーンの行動を見て興味深いのは、実によく旅行をしていることです。
赴任した年の翌年の春休みには博多から太宰府へ行き、夏休みには博多、神戸、京都、奈良、広島、隠岐と周遊の旅に出ています。当時の交通事情などを考えると大移動だったと思われます。これ以外にも小旅行を何度もしました。
しかし、これら一連の旅は、もはや放浪とは呼べないものでした。ハーンの傍らには、ほとんど常に妻セツの姿がありました。また、経済的にも、空腹を抱えたまま木賃宿を泊まり歩いたアメリカ時代と違って、ずっとゆったりとした旅行だったのです。
そして、これらの旅は後のハーンの作品の素材となったという意味では楽しい取材旅行だったはずです。
同僚教師との確執が激しくなった
熊本の学校では、次第に同僚との確執が激しくなり、また著作の出版をめぐっては出版社と対立し、必ずしもこころ穏やかな日々ばかり続いたわけではありませんでしたが、家庭生活の安定によってハーンは人間的に成長したと自分自身も感じていたようです。熊本時代に友人のワトキンに宛てて書いた手紙の中に次のような一節があるのです。
「いましばしば不思議に思いますのは、あなたの生涯で最低の甘えん坊が振る舞った並外れた非人間的な愚挙醜行の数々を、あなたがじっと耐えてくださったことです。あなたを悩ませ、憤慨させた、私の不届き千万の、卑劣で、馬鹿げた憎むべき行為のすべてを思い出すと、どうしてあなたが私を殺そう――神々のいけにえとして――と思わなかったのか、まったくわかりません。私は何たる大馬鹿だったろう!――そして、あなたはどうしてあんなに親切でありえたのか? また、なぜ人間はこうも変わるものなのか。昔の自分はこの地上に存在することを許されてはならなかった、といまの私には思えます。――それでいて、いまだに私のなかに、時々、昔の自分をありありと思い出させる忌まわしい名残りを感じることがあります。」
貯金は現在なら1億6000万円
同じ手紙でハーンは貯金が4000円(現在なら約1億6000万円)になったことを告げて「私の心が進歩しなかったとはお思いにならないでしょう」と、得意げでもあります。これは、自分の所属する社会と、ようやく折合いをつけてやってゆけるようになったことを、かつての庇護者に自慢しているのだと思います。
長男一雄の生まれた翌年の1894年には、初めての日本に関する著書である『日本瞥見記』がアメリカのホートン・ミフリン社から出版されました。その評判について、ハーンは誇らしげにチェンバレンに報告しています。
「拙著『瞥見記』“Glimpses”をあなたがお気に召してくださった由、うれしく思います。もとよりこの著作は欠点だらけです。完全な孤絶状態で書かれた作品は、どれもそうならざるを得ないと思われます。でも、この本の人気は上々です。出版社はすでに第三版を予告し、書評も褒めています――アメリカでは熱狂的な評判です。『アセニーアム』誌は熱烈に賞賛しました。しかし二、三のイギリスの新聞が酷評しています。非難と称賛の混声は、一般的には文学的成功を意味しています。」
この手紙は、1895年の1月に書かれたのですが、すでにハーンはこの前年の10月に神戸へ移転しています。
神戸では英字新聞の記者に転身
『神戸クロニクル』という英字新聞の記者のポストを得たためでした。給与が1カ月100円(現在約400万円)と以前の半分になった上に6カ月だけの契約でした。松江はもちろんのこと熊本でも、ハーンは優れた教師として評判は高かったのですが、熊本での同僚との対立が決定的に悪化してしまったのが退職の原因と考えられます。
またしても、セツと長男一雄やその養父母、親戚、使用人など総勢8人の大家族を連れての引っ越しでしたが、開港地神戸の雰囲気にも、そこの外国人社会にもあまり馴染めませんでした。ここでも問題は、その風土よりも人間関係にあったのです。ワトキンに宛てて神戸発で次のような手紙を書いています。
「誠実な人間はわずかしかいません。サインの蒐集狂や小出版社の策士連中、日本の商業事情の情報を無償で手にいれたがる連中を私は通信相手とは考えていません。彼らには返事など絶対にやりません。この世界に親友というのは、二人か三人です。それで十分ではないですか?」
ハーンが言う2人か3人の親友の中には、もちろんワトキンもふくまれていました。
それ以外にも日本に到着した直後から交際が始まり、頻繁に文通を重ねていたチェンバレンや、同じように日本女性を妻とした逓信省勤務のウィリアム・B・メイソン、島根尋常中学校の教頭で松江を去ってからもずっと親交を結んだ西田千太郎などを指していたと思われます。しかし神戸では、新しい友人はなかなかできませんでした。
熊本で書いた本の印税5200万円
そしてこの手紙には、当時のハーンの猜疑心の強さもよく表れています。2作目の『東の国から』が、1895年に出版され、ハーンの日本理解はさらに深みを増しているとの評判で、彼の名前は全米に知れ渡りました。いっそう自信が強まるのと同時に、自分の名声を目当てに他人が近づいて来るのではないかと、神経質に警戒するようになっていました。
『神戸クロニクル』の仕事は目を痛めたため3カ月ほどで退社しました。そして視力が回復しても、文筆だけで身を立てようと考え、チェンバレンが紹介してくれた教員の仕事を断ります。
この年の原稿収入は1300円(現在の約5200万円)あったので、ハーンが自信を持ったのも当然のことだったのでしょう。
ハーンのところへ、その後の彼の日本での生活に決定的な影響を与えることとなる手紙が舞い込んだのは、1895年の12月の初め頃と思われます。
東京帝国大学講師のオファー
「帝国大学英文学教授の職を受けていただけるでしょうか?」という問い合わせがチェンバレンから届いたのでした。(実際には講師でしたが教授と同等の待遇を受けました。)
「とにかく、わたくしが申し上げてよいと思うことは、あなたの勤務に関する限り、地方より今度の職務のほうがずっと楽しいものだということが、あなたにおわかりいただけるだろう、ということです。何となれば、教授たちは大いなる独立性を持っており、わずらわしい環事や暴政がかれらにどのようにもかかわり得るはずがないからです。」
「いずれにしても、あなたをお迎えすることができれば、学生たちにとって大変な幸運であると確信しています。それにおそらく日本の帝国大学教授の肩書は、あなたの著書の題扉を飾るのにも、けっして悪いものではないでしょう。外山も言い、またすべての人々が認める事実として、あなたがご自身の功績だけで十分に独立してやってゆけることはもちろんといたしましても。」
帝大の月給は約1600万円と高給
外山とあるのは帝大の文科大学長を指しています。
チェンバレンはこまやかな気配りをして、作家としてのハーンの誇りも傷つけないようにしました。しかし、ハーンがどれほど功績のある作家だとしても帝国大学で教える仕事は、確かに「けっして悪いもの」ではなかったでしょう。しかも、それは東京で暮らすという意味でもありました。
「東京で本当に静かな暮らしができる可能性はというと、これほど容易なこともないのです。この都会はあまりに大き過ぎて、わずらわしさから自由にならざるを得ないのです。」
その次の手紙ではチェンバレンは、東京という大都会の生活は、一人になるにはきわめて都合がよいといっています。地方の町よりも個人主義が発達しているので他人が生活に立ち入らないのです。
翌年の9月からハーンは帝国大学で英文学を講じることになりました。月給は400円(現在の約1600万円)で、『神戸クロニクル』の実に4倍でした。
妻や子を連れて東京へ移り住む
チェンバレンの言葉はある部分正しかったようです。東京ではハーンはわずらわしい人間関係を避けて、家と大学を往復しながら規則正しく毎年1冊ずつの著作を発表しました。
ハーンは正規の教育を受けたわけではなく、ほとんど独学で英文学を学んだのですが、その講義は学生たちに絶大なる人気がありました。まさか帝国大学で教えるようになるなどと本人ですら夢にも思っていなかったでしょうが、ハーンの文学的教養の深さは、じゅうぶんにその責務に耐えられるのみならず、誠実な教え方で学生たちの心を魅了したのでした。
