貯金は現在なら1億6000万円
同じ手紙でハーンは貯金が4000円(現在なら約1億6000万円)になったことを告げて「私の心が進歩しなかったとはお思いにならないでしょう」と、得意げでもあります。これは、自分の所属する社会と、ようやく折合いをつけてやってゆけるようになったことを、かつての庇護者に自慢しているのだと思います。
長男一雄の生まれた翌年の1894年には、初めての日本に関する著書である『日本瞥見記』がアメリカのホートン・ミフリン社から出版されました。その評判について、ハーンは誇らしげにチェンバレンに報告しています。
「拙著『瞥見記』“Glimpses”をあなたがお気に召してくださった由、うれしく思います。もとよりこの著作は欠点だらけです。完全な孤絶状態で書かれた作品は、どれもそうならざるを得ないと思われます。でも、この本の人気は上々です。出版社はすでに第三版を予告し、書評も褒めています――アメリカでは熱狂的な評判です。『アセニーアム』誌は熱烈に賞賛しました。しかし二、三のイギリスの新聞が酷評しています。非難と称賛の混声は、一般的には文学的成功を意味しています。」
この手紙は、1895年の1月に書かれたのですが、すでにハーンはこの前年の10月に神戸へ移転しています。
神戸では英字新聞の記者に転身
『神戸クロニクル』という英字新聞の記者のポストを得たためでした。給与が1カ月100円(現在約400万円)と以前の半分になった上に6カ月だけの契約でした。松江はもちろんのこと熊本でも、ハーンは優れた教師として評判は高かったのですが、熊本での同僚との対立が決定的に悪化してしまったのが退職の原因と考えられます。
またしても、セツと長男一雄やその養父母、親戚、使用人など総勢8人の大家族を連れての引っ越しでしたが、開港地神戸の雰囲気にも、そこの外国人社会にもあまり馴染めませんでした。ここでも問題は、その風土よりも人間関係にあったのです。ワトキンに宛てて神戸発で次のような手紙を書いています。
「誠実な人間はわずかしかいません。サインの蒐集狂や小出版社の策士連中、日本の商業事情の情報を無償で手にいれたがる連中を私は通信相手とは考えていません。彼らには返事など絶対にやりません。この世界に親友というのは、二人か三人です。それで十分ではないですか?」
ハーンが言う2人か3人の親友の中には、もちろんワトキンもふくまれていました。
それ以外にも日本に到着した直後から交際が始まり、頻繁に文通を重ねていたチェンバレンや、同じように日本女性を妻とした逓信省勤務のウィリアム・B・メイソン、島根尋常中学校の教頭で松江を去ってからもずっと親交を結んだ西田千太郎などを指していたと思われます。しかし神戸では、新しい友人はなかなかできませんでした。