言い分と報復だらけの世界に平和は訪れない
わたしは広島で育った。
子どもの頃から原爆や戦争の悲惨さについて、また平和を希求する大切さについて教えられてきた。
なぜ広島の人や長崎の人、ひいてはすべての日本人は、人類史上はじめて2発の原子爆弾を人間の上に投下したアメリカに報復しないのか?
それは、日本人は恒久の平和を求めると合意したからだ。
「原爆を落としたアメリカを、わたしたちは永遠に許さない!」といっていたら、子孫末代に至るまで報復が連鎖するだろう。自分たちも相手も、いつまでも平和には生きていけない。
さまざまな説があるが、多くのアメリカ人は、原爆投下はそもそも日本が真珠湾を奇襲したからだと考えている。だが、日本にも真珠湾を奇襲した理由があった。互いに譲れない理由と言い分があるのである。
ならば、そんな言い分と報復だらけの世界で、どうすれば人類は平和に生きていくことができるだろうか?
復讐はダメなのに死刑は存続する日本
答えは、相手を「許す」ことだ。
論理的に考えて、「相手を許したほうが平和な社会になる」から、わたしたちは報復を捨てたのである。日本では死刑制度が存続しているが、ほかの多くの社会では、被害者の仇を討つのではなく、加害者に罪を償わせるという考え方に変化している。
その「償い」とは、その人の存在を消去することではなく、「より良き人」に変えることだ。「犯人は心の異常によって酷い行為をしたので、刑務所で更生し、より良き人になったらまた世の中で生きていい」と考えるのだ。そうしたほうが、社会が平和で生産的な方向へ向かうからである。
だが、日本人の精神性には、いまだ仇討ち的な考え方が色濃く残っている。見かけは西洋の価値観を取り入れながら、内実はそうではないところに、日本社会の歪みのひとつが現れているというべきかもしれない。
無意識の利他性とは逆の、無意識の残虐性である。