リヤカーが坂道や段差を通ると、看板にくくられた鈴がチリリンと鳴る。懐かしい音色だ。路面電車が行き交う広島の町に、おむすびが描かれた暖簾を付けたリヤカーがやってくる。そう考えるだけで、なんだかワクワクした。

リヤカーが出発してすぐ、「初めて買う」と言う男性がおむすびを2個買っていった。その後、果穂さんが広島本通商店街の脇道に到着すると、次々と客が訪れた。
「姉さん、今日のオススメあるかい?」
「果穂ちゃん、がんばってね」
「ラッキー! 会えたから買おう」
男女年齢問わずさまざまな客がリヤカーに集まる。広島市内で、彼女を知る人は想像以上に多かった。

新聞やテレビで取り上げられ、広島の「時の人」になった果穂さんだが、昨年3月に開業した当初は、1日に3個しか売れなかったという。リヤカーを引くと好奇の目を向けられ、内気な性格も相まって、公園の片隅で小声で売ることしかできなかったという。
なぜ「おむすび行商」を始めたのか。そして、なぜここまで変われたのか。今日までの道のりには、果穂さんの反骨精神と、厳しくてやさしい“両親の言葉”があった――。
厳しく育てられた4人姉弟の長女
果穂さんは1997年、瀬戸内海沿いに位置する広島県呉市の田舎町で生まれた。鉄板焼き屋を営む両親の影響で、中学生になると率先してお店を手伝うようになる。
「父はめっちゃ厳しい人で、甘やかされた記憶がないくらい」と彼女が言うように、父からは「人のせいにする人間になるな」と言われ続けてきたという。とはいえ、友達と遊ぶよりも両親や3人の弟たちと過ごすことが好きだった果穂さんは、「ずっと家で暮らしたい」と思っていた。
青天の霹靂だったのは、中学1年生の時。父から「10代のうちに家を出なさい」と言われたことだ。果穂さんは「なんでじゃ」と驚き、目に涙を溜めながら父を睨んだ。
もっとも、父には「自分らが死んだ時、誰かに依存したままおったらどうするんや」という思いがあった。だが、その気持ちをまだ理解できなかった果穂さんは、あまり父と口を利かなくなった。
地元の高校を卒業後、東広島にキャンパスがある近畿大学に合格したことをきっかけに、嫌々ながらも18歳で一人暮らしを始める。絵を描くことやインテリアが好きだった果穂さんは建築学科へ進学した。
だが、同級生らは建築士の資格を取るために入学しており、「なんとなく好きだから」で入った彼女とは温度差があった。課題で出された模型を一緒に作る仲間はできたが、遊びに行くような友達はできなかった。果穂さんは「弟がいて賑やかだった分、誰もいない部屋で食事をしている時が余計に心細かったです」と振り返る。
家族がいる呉市に戻りたかったが、両親には甘えられない。果穂さんは学ぶ意欲を失い、休学。21歳で大学を中退した。その後、果穂さんは人間関係で悩むことになる。