昭和の歌姫・美空ひばりの分刻みのスケジュールを支えた“鉄の相棒”とは何か。『歴史のダイヤグラム〈3号車〉 「あのとき」へのタイムトラベル』(朝日新書)を上梓した政治学者の原武史さんは「美空ひばりが活躍した時期は、公共企業体としての国鉄の時代とほぼ重なっている。まだ新幹線網が確立しておらず、全国の主要幹線に夜行列車が走っていた時代でもあった」という――。

夜行列車を重宝した美空ひばり

一九五八(昭和三三)年三月二〇日、京都22時55分発東京ゆき急行「彗星すいせい」に、美空ひばりが乗った。数ある夜行急行のなかで、「彗星」は唯一、ほぼすべて2・3等寝台車で編成されていた。この寝台車は快適だったようで、「汽車の音を子守唄に、グッスリ寝こんでしまい」(『胸に灯りをともす歌』上)、8時31分着の横浜で降りた。

ひばりはすでに大スターの座にあった。鉄道を使い、公演の旅に出ることも少なくなかった。地方では、列車が駅にまっている間に大勢のファンが車内になだれ込み、サインをせがまれることもあった(『ひばり自伝』)。そのせいか、夜行列車を重宝するようになった。

太秦うずまさの東映京都撮影所での仕事が多かったひばりは、東海道本線の夜行列車をしばしば利用した。五六年から東京と九州を結ぶ寝台特急が走り始めたが、関西に行く場合は東京と大阪や神戸を結ぶ急行のほうが便利だった。

一九五七年から六〇年まで月刊誌に連載されたひばりの日記には、東京で仕事を済ませてから夜行の急行に乗り、翌朝京都に着くや太秦の撮影所に向かう記述がいくつもある。最も利用したのは、東海道新幹線開業前日の六四年九月三〇日まで走っていた「彗星」だった。快適なうえ、下りも上りも時間帯がよく、利用しやすかったからだろう。

当時、ひばりはまだ二〇代前半で、寝ている間に移動できる夜行列車はありがたかったに違いない。だが年齢を重ねるにつれ、その移動が苦痛になっていったようだ。

分刻みのスケジュールを支えた国鉄ダイヤ

一九八三年五月一一日朝6時、上野に着いた列車からひばりが降りた。青森を前日の20時15分に出た寝台特急「はくつる2号」だった。

「ああ疲れた!/昨夜の汽車の寝台ではとてもねむれなかった……/体が小さいくせにせまいベッドが嫌いだ!/どちらを向いても手が痛い!/椅子のくぼみで腰が痛い!/なんとねづらいベッドよ……」(『川の流れのように』)

若いころとは異なり、ほとんど眠れなかった様子がひしひしと伝わってくる。

ひばりが乗ったのは、昼間は普通の特急として走り、夜間は寝台車に変身する583系という車両だった。ボックス型の席が寝台になるため、下段だとどうしてもくぼみができてしまう。これが耐え難かったようだ。

美空ひばりが歌手として活躍した時代は、公共企業体としての国鉄の時代とほぼ重なっていた。それはまだ新幹線網が確立しておらず、全国の主要幹線に夜行列車が走っていた時代でもあった。ひばりの分刻みのスケジュールは、昼夜を問わずダイヤ通りに走る国鉄によって支えられていたと言っても、過言ではないだろう。

戦後の大スターだった美空ひばり=1981年、東京・日本武道館
戦後の大スターだった美空ひばり=1981年、東京・日本武道館[出典=『歴史のダイヤグラム〈3号車〉』(朝日新書)]