「自分のお金を手放す」のは嫌だった
神社巡りをしていると徳の高い人のように思われがちですが、もともと僕は、お金への執着が強い未熟な人間でした。
シンガーソングライターの活動もしているので、当時は路上で歌い、ギターケースにお金を入れてもらっていました。路上で歌っているシンガーはほかにもいて、いい歌だな、応援したいなと思っても、僕はお金を入れませんでした。
同じ境遇なのに、自分のお金を手放すのは嫌だったんです。そんな僕がいま、「神社に自らお金を納めたい」と思うまでになったのは、神社で多くの学びがあったからです。
ただ「返ってくる」
日本の神様は目に映らないため、「何を表しているのか?」と考える機会がよくありました。たとえば参拝時、前を見ると「鏡」が置かれています。
あるとき、神職のかたから「かがみ」という言葉の真ん中の「が」を取ると「かみ」になる。鏡に映る自分から「我」を取ったら「神」になるという話を聞きました。
しかし、実際に映っているのは「我」のある自分ですよね。「我」を消せないうちは「神」ではない。ということは、自分の中にある「我」を押し出さず、神様や他人など、自分以外の存在をいかに優先できるか、そんなことが問われているのではないか、と思うようになります。
目に見えない神様にとる態度は、鏡に映され、自分に返ってきます。
誰も見ていなくても神様はすべて見ていて、「神様にしていることは、自分に跳ね返ってくる」のです。そう気づいたら、自分の行動や言動は誰かに影響を与えていて、人から返ってくるもので開運するんだ、ということがわかりました。
相手への「敬意」が態度にあるかどうか
「生きる」とは「人と関わる」こと。
人との関わりでは、相手への敬意を態度で伝える必要がありますよね。神社は、その練習をさせてくれる場所だと思うようになったのです。
神社巡りをはじめてから、自分に起きた変化に一番驚いているのは、僕自身です。「お金への執着が減った」「人への態度が変わった」「出会う人が変わってきた」……これらはすべて神社に上がることを習慣化したなかで起きた変化です。
それを期待していたわけではなく、気づいたら変わっていた、というものかもしれません。みなさんもぜひ「神社習慣」を身につけてみてはいかがでしょう。
これまで参拝に上がった神社は全国15000社以上、受けた御朱印は4400を超える(2024年9月現在)。「神社巡拝家」として各地を巡るなかで、神職の方々や現地のかたにその土地の伝承を聞くなどして知見を深める。その知識をもとにYouTube「神社ソムリエのあやかりチャンネル」などで発信。現在は、江戸時代まで活躍していた御師になぞらえ「現在の御師」を標榜。神職向けの講演会やテレビ、ラジオなどで活動している。