千年前、紫式部はどのようにして『源氏物語』を成立させたのか

【角田】私は訳しながらすごく不思議に思ったことがあります。紫式部はこんなに長い物語、こんなに複雑に入り組んだ人間関係を、紙が豊富にあるわけではない時代に、どのようにして整理して書いたのか。たとえば第22帖に出てくる玉鬘たまかずらが、実は第4帖で語られていたというようなことがよくあります。

【山本】『源氏物語』がどのように成立していったかということは、本当にわからないんですね。いちばん極端なことを申しますと、紫式部の書いた原稿はもう伝わっていません。今残っている写本の文章は、紫式部が書いたものという保証はないんです。

加えて、いつどういう順番で書いていったのかということも、彼女自身が証言していないのでわからない。

土佐光起筆 紫式部図(一部)
土佐光起筆 紫式部図(一部)(画像=石山寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

夫を亡くした紫式部は絶望し、人生を見つめながら物語を書いた

【山本】でも客観的な証拠で言うと、1008年11月1日の敦成あつひら親王誕生50日のパーティーで、ある貴族が「このわたりに若紫わかむらさきやさぶらふ」と紫式部を呼んでいます。パーティー会場の入口から「このあたりに若紫さんはお控えかな」と、紫式部を探しているんですね。ですから1008年には「若紫」の帖が書かれていて、貴族にも読まれていたということは確実です。

紫式部がそのパーティー会場にいたのは、藤原道長にスカウトされておきさきの彰子(しょうし/あきこ)に侍女として仕えていたからです。紫式部が彰子に仕え始めたのが1005年12月29日ということはわかっています。ですから1005年の年末までには『源氏物語』の習作を自宅で書いていたものと思います。

では、どこまで起筆を遡ることができるか。紫式部の夫が亡くなったのが1001年4月25日です。紫式部が詠んでいる和歌からみて、彼女は夫が亡くなって絶望し、人生というものを深く考えるようになりました。ですから1001年から1005年にかけての4年間で、彼女は現実から逃避して物語という虚構のなかに逃げ込みつつ、そこで自分の人生を検証するような執筆活動を始めて、その物語が口コミで広がったんだろうというふうに私は考えています。