志賀潔が赤痢菌を発見し、北里の研究所は窮地を脱した
志賀潔は仙台の旧士族の出で東大医学部を卒業後、明治29年に伝研入りした。
![志賀潔、1924年](/mwimgs/7/3/400/img_73deb31447ea52c675af752ce1e945d6400090.jpg)
最初は北里に培養基の作り方から染色法、動物試験の基礎を学んだ。北里の指導は厳格で、志賀が軽い気持ちでデータの改竄をした時は、最大級のドンネル(ドイツ語で雷の意)を被弾した。
半年の初期研修を終えた明治30年6月、赤痢が大流行した。
赤痢は激烈な下痢、粘血便、高熱が出て全身が衰弱する死病である。明治13年から30年のコレラ患者は35万人、赤痢患者は91万人で死者も赤痢の方が多かった。
当時の農家の肥料は糞便だったので、赤痢が流行するのは、ある意味で当然だった。
赤痢は北島が担当予定だったが、ドイツ留学を控えていたため、新人の志賀にお鉢が回ってきた。志賀は研究所に寝泊まりし、文献に当たった。「ヴィダール現象」という「罹患患者や回復期患者の血清に菌を入れると凝集し、他の血清では凝集しない」という「コッホ三原則」を補強する検査法を見つけ出し、これを使った。
志賀が赤痢菌を発見すると、北里は直ちに論文に仕上げよと指示した。大学卒業直後の志賀には荷が重かったが、ようやく書き上げると北里は丁寧に添削し、次にドイツ語で書くよう命じた。それも必死に書くと、北里は、志賀の単名の論文にした。
![【図表】細菌発見史](/mwimgs/0/0/520/img_00e6a0a91e60372db5a1ea18fe6f0d33606338.jpg)