新1万円札の顔・渋沢栄一は女好きの艶福家としても有名だ。経営史学者の菊地浩之さんは「正式に結婚した妻は2人、他にも女性はいて、妻と暮らす家に妾も住まわせた。子どもは少なくとも17人いて、その子たちは政財界の大物と婚姻。栄一の子孫たちは現在も企業の社長、役員などを務めている」という――。

妻・千代、後妻・兼子の間に6男4女が生まれた

2024年7月、40年ぶりに新札が登場した。新1万円札の表面を飾るのは、渋沢栄一(1840~1931年)だ。

自宅でラジオ放送に臨む渋沢栄一と家族、関係者。栄一の後ろに次男の篤二、右に後妻の兼子、子どもたちは栄一の孫たち
自宅でラジオ放送に臨む渋沢栄一と家族、関係者。栄一の後ろに次男の篤二、右に後妻の兼子、子どもたちは栄一の孫たち(1931年9月6日)(画像=文藝春秋/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

栄一は500社とも数えられるほど、精力的に会社を作っていたのだが、私生活では子どもをたくさん、こしらえていた。こちらの方も精力的で……。

栄一は1858年に18歳で、イトコの千代(1843~1882年)15歳と結婚。2男3女をもうけた(年齢は満年齢)。千代に先立たれると、翌1883年に15歳年下の兼子(1852~1934年)31歳と再婚、5男1女をもうけた(★は千代の子、☆は兼子の子)。

長男・渋沢市太郎★ (1862~1862年) 早世
長女・穂積ほづみ歌子★ (1863~1932年) 穂積陳重のぶしげの妻。宇多ともいう。
次女・阪谷さかたに琴子★ (1870~1925年) 阪谷芳郎の妻。ことともいう。
三女・渋沢糸子★ (1871~1871年) 早世。伊登ともいう
次男・渋沢篤二とくじ★ (1872~1942年)
息子・渋沢敬三郎☆ (1883~1883?年) 早世
三男・渋沢武之助☆ (1886~1946年)
四男・渋沢正雄☆ (1888~1942年)
四女・明石あかし愛子☆ (1890~1977年) 明石照男の妻
五男・渋沢秀雄☆ (1893~1984年)
六男・渋沢忠雄☆ (1896~1897年) 早世

子だくさんだったが10人中4人は幼くして亡くなった

計6男4女が公式のお子さんである――のだが、足し算をすると、男子が1人足りない。兼子の第1子が早世してカウントされていないためなのだが、そもそもその子は再婚した年に生まれているので、取り扱いが微妙ではある。

栄一の孫・鮫島さめじま純子すみこは、その著書『祖父・渋沢栄一に学んだこと』にて父親の正雄が栄一の四男で「栄一と後妻兼子の三番目の男の子」と記し、「兼子は結婚後、流産、新生児夭折が続き」、正雄の兄武之助が「三男」だと記している。「新生児夭折」が敬三郎なのであろう。

ちなみに、筆者は渋沢栄一の曾孫(渋沢姓ではない)にお目に掛かったことがあるのだが、その方によれば、6男4女のうち、早世していない7人の子女の末裔を「一族会」のメンバーとしているそうだ。