妻・千代、後妻・兼子の間に6男4女が生まれた
2024年7月、40年ぶりに新札が登場した。新1万円札の表面を飾るのは、渋沢栄一(1840~1931年)だ。
栄一は500社とも数えられるほど、精力的に会社を作っていたのだが、私生活では子どもをたくさん、こしらえていた。こちらの方も精力的で……。
栄一は1858年に18歳で、イトコの千代(1843~1882年)15歳と結婚。2男3女をもうけた(年齢は満年齢)。千代に先立たれると、翌1883年に15歳年下の兼子(1852~1934年)31歳と再婚、5男1女をもうけた(★は千代の子、☆は兼子の子)。
長女・穂積歌子★ (1863~1932年) 穂積陳重の妻。宇多ともいう。
次女・阪谷琴子★ (1870~1925年) 阪谷芳郎の妻。ことともいう。
三女・渋沢糸子★ (1871~1871年) 早世。伊登ともいう
次男・渋沢篤二★ (1872~1942年)
息子・渋沢敬三郎☆ (1883~1883?年) 早世
三男・渋沢武之助☆ (1886~1946年)
四男・渋沢正雄☆ (1888~1942年)
四女・明石愛子☆ (1890~1977年) 明石照男の妻
五男・渋沢秀雄☆ (1893~1984年)
六男・渋沢忠雄☆ (1896~1897年) 早世
子だくさんだったが10人中4人は幼くして亡くなった
計6男4女が公式のお子さんである――のだが、足し算をすると、男子が1人足りない。兼子の第1子が早世してカウントされていないためなのだが、そもそもその子は再婚した年に生まれているので、取り扱いが微妙ではある。
栄一の孫・鮫島純子は、その著書『祖父・渋沢栄一に学んだこと』にて父親の正雄が栄一の四男で「栄一と後妻兼子の三番目の男の子」と記し、「兼子は結婚後、流産、新生児夭折が続き」、正雄の兄武之助が「三男」だと記している。「新生児夭折」が敬三郎なのであろう。
ちなみに、筆者は渋沢栄一の曾孫(渋沢姓ではない)にお目に掛かったことがあるのだが、その方によれば、6男4女のうち、早世していない7人の子女の末裔を「一族会」のメンバーとしているそうだ。
女好きで知られ、正妻以外にも3男4女以上、子が生まれた
栄一には公式のお子さん以外に、庶腹の子どもが数人存在した。
中でも有名であるのが、第一銀行の「プリンス」として頭取に推され、三菱銀行との合併失敗で辞任を余儀なくされた長谷川重三郎である。かれは栄一の13番目の子どもだったから、「十三」をもじって重三郎と命名されたといわれている。
少なくとも下記の7人が栄一の子どもだといわれている。
娘・大川てる (1875~1927年) 大川平三郎の妻
息子・星野辰雄 (1892生まれ) 星野錫の養子
娘・安本つる (1897生まれ) 星野錫の養子、安本明治郎の妻
娘・川崎まつ (1900生まれ) 星野錫の養子、川崎甲子男の妻
息子・長谷川重三郎(1908~1985年) 公的には長谷川元の子
息子・長谷川遠四郎 (生没年不詳)
68歳でも子どもができ「若気の至りで」と言い訳した
栄一は還暦を過ぎてから子どもができてしまい。思わず「若気の至りで」と語ったとか……。長谷川重三郎は栄一が68歳の時に生まれているので、彼がその子どもなのかも知れない。
ふみ、てるの母、大内くには、NHK大河ドラマ『青天を衝け』にも登場し、妻妾同衾、つまり同じ屋敷に妻と愛人が住む様子は、ちょっとした驚きを持って受けとめられた。
俗に「妾を囲う」というのは、商家の風習であるようだ。文字通り、別宅を用意して、そこに愛人(側室)を住まわせる。でも、そこには大きなデメリットがあった。正妻に娘しかおらず、側室に男子がいた場合、武家社会ではよほどのことがない限り、庶腹の男子に跡目を継がせるのだが、妾を囲った商家ではうまくいかなかった。
江戸時代の商家は職住一体で、使用人は住み込みだった(手代・番頭クラスは独立して通勤を許された)。そうなると、見も知らぬご子息より、子どもの時から成長を見てきた娘の方に情が沸く。庶腹の男子の相続に反対するというわけである(優秀な番頭を娘婿にするというのは中小の商家で、三井・住友クラスでは男系相続。使用人との結婚はタブーである)。
換言するなら、何が何でも男系相続をしたい武家は、妻妾同衾を選ばざるを得ない。そういうことなんだろう。
後継者だった次男・篤二の「大失策」とはなんだったのか
栄一の長男・市太郎は早世してしまったので、次男の渋沢篤二(1872~1942年)が跡取り息子と期待されたのだが、旧制第五高等学校(熊本県)在学中の1892年に病気で退学を余儀なくされる。
実は病気ではなく、「大失策」を起こし、一族の意向で五高をなかば強制的に退学させられ、栄一の故郷・血洗島で蟄居謹慎という処分を命じられることになる。(篤二の姉の)歌子日記には、篤二の「大失策」が具体的に何であったかは記されていない。ただその緊迫した行間から、肉親として記すのもはばかられるような不祥事が起きたことだけは想像できる。
歌子日記を編纂した(歌子の孫の)穂積重行は、「篤二の『大失策』は、神経性ノイローゼによる耽溺流連ではなかったか、推察している」(佐野真一『渋沢家三代』)という。
篤二の「大失策」について、姪(弟・秀雄の次女)の渋沢華子(本名・喜多村花子)は、その著書の中で、もう少し具体的に述べている。すなわち、「篤二は、学習院から熊本高校に入学したが、そこの土地の娘と恋が芽生えた。一途な情熱は、彼に金を惜しみなく浪費させた。栄一はじめ二人の姉たちは、『すわ、お家の一大事』と、慌てて退学させ帰京させてしまった」(渋沢華子『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一』)という。
次男は廃嫡、その長男が生物学の道をあきらめ跡を継ぐ
篤二の孫・渋沢雅英は「(篤二は)栄一の長男ではあったが、身体も弱く、実業にはあまり興味もなかったとみえて、その方ではとくに名を成さなかったけれど、生まれつき多才で趣味の豊かな人だったという。狂歌を読んだり、義太夫(浄瑠璃)も素人の域を脱していた。一時、写真に凝って、その作品集を後に『瞬間の累積』と題して父(渋沢敬三)が出版したが。ルポルタージュ写真としては、日本の草分けともいうべきすぐれた感覚と技術をもっていた」(渋沢雅英『父・渋沢敬三』)。
ここまでの文章で気がつかれた方もいらっしゃると思うが、渋沢一族には書籍出版されている方が多い。文才に富んだ一族で、事業なんか向いていないのかも知れない。
結局、篤二は廃嫡(跡取り息子から除外)され、篤二の長男・渋沢敬三が栄一の家督を継ぐことになった。この敬三も生物学に進みたいという思いを、祖父・栄一にやんわりと反対され、銀行家の道に軌道修正した。
「向いていない」と言いながら日銀総裁になった孫の渋沢敬三
敬三は「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし、真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした」と語っている(『瞬間の累積』)。それなのに、第一銀行副頭取から日本銀行総裁、大蔵大臣(財務大臣)まで務めたのだから、よほど優秀だったのだろう。
渋沢栄一と同時に新千円札になる北里柴三郎(1853~1931年)にも共通点がある。
意外に知られていないが、北里はその多大な功績から男爵を授与されている。しかし、かれの長男・北里俊太郎(1895~1953年)は爵位を継承しなかった。
新千円札の北里柴三郎の長男は芸者との心中事件を起こす
医者は子どもを医者にさせることが多いが、俊太郎は医学の道に進まず、三井物産に就職した。ところが、戦前の三井物産は、信賞必罰が徹底した超「肉食系」である。俊太郎は早速出世コースから脱落したらしい。安月給で生活がままならず、実家に生活費の援助を求めては、厳格な父に拒絶され、母から内緒で融通されるが、それが知れて父子間が厳しくなる。
挙げ句に、俊太郎は花柳界に安らぎを求めた――あれ? お金がないんじゃないの――そして、1915年に芸者と心中事件を起こしてしまうのである。俊太郎は一命を取り止めるが、芸者は死亡。
北里柴三郎は落胆し、公職を全て辞した。そして、柴三郎の死後、遺族は襲爵手続きを取らず、男爵の栄誉は柴三郎一代で終わってしまったのである(千田稔『華族事件録』)。
渋沢栄一も、北里柴三郎も期待をかけた嫡男のスキャンダルには手を焼いた。没後100年近く経っても功績を称えられ、お札の顔になるほどの偉人でも、子育てはままならないのだという、ひとつの教訓と言えるかもしれない。