「向いていない」と言いながら日銀総裁になった孫の渋沢敬三

敬三は「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし、真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした」と語っている(『瞬間の累積』)。それなのに、第一銀行副頭取から日本銀行総裁、大蔵大臣(財務大臣)まで務めたのだから、よほど優秀だったのだろう。

渋沢栄一と同時に新千円札になる北里柴三郎(1853~1931年)にも共通点がある。

北里柴三郎、1910年
北里柴三郎、1910年(画像=『北里柴三郎伝』/北里研究所/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

意外に知られていないが、北里はその多大な功績から男爵を授与されている。しかし、かれの長男・北里俊太郎(1895~1953年)は爵位を継承しなかった。

新千円札の北里柴三郎の長男は芸者との心中事件を起こす

医者は子どもを医者にさせることが多いが、俊太郎は医学の道に進まず、三井物産に就職した。ところが、戦前の三井物産は、信賞必罰が徹底した超「肉食系」である。俊太郎は早速出世コースから脱落したらしい。安月給で生活がままならず、実家に生活費の援助を求めては、厳格な父に拒絶され、母から内緒で融通されるが、それが知れて父子間が厳しくなる。

挙げ句に、俊太郎は花柳界に安らぎを求めた――あれ? お金がないんじゃないの――そして、1915年に芸者と心中事件を起こしてしまうのである。俊太郎は一命を取り止めるが、芸者は死亡。

北里柴三郎は落胆し、公職を全て辞した。そして、柴三郎の死後、遺族は襲爵手続きを取らず、男爵の栄誉は柴三郎一代で終わってしまったのである(千田稔『華族事件録』)。

渋沢栄一も、北里柴三郎も期待をかけた嫡男のスキャンダルには手を焼いた。没後100年近く経っても功績を称えられ、お札の顔になるほどの偉人でも、子育てはままならないのだという、ひとつの教訓と言えるかもしれない。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。