※本稿は、海堂尊『よみがえる天才7 北里柴三郎』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
福沢諭吉らが1億円相当を出資し、結核養生所をオープン
明治26年9月、東京府知事から伝研の建設許可が下りると、福沢はあっと驚く奇手を打つ。9月16日、広尾に「結核養生所」の「土筆ヶ岡養生園」を開園させたのだ。療養所の門構えは大名屋敷の如し。園内の丘に数寄を凝らした茶室で洋式小屋も兼ねた「八角堂」や百畳の演芸場を設置した。
贅を尽くした養生園は福沢の気宇壮大な風雅を世に示していた。そして北里の威名を考え結核専門病院にした。建築費は福沢が半分、残り半分は森村市左衛門が無償提供した。二人で1万円(今日の1億円相当)という巨額の拠出に北里は恐縮するが、福沢はこともなげに言った。
「今度の土地は賃料もいただくよ。芝のちっぽけな土地を謹呈したのはこの大魚を釣り上げんがための撒き餌だったのさ。どうだい、恐れ入ったかい?」
偽悪家ぶった福沢だが、経営が失敗するリスクを引き受けていることについては語らなかった。北里にはふたつ気がかりがあった。ひとつは彼の応援団の後藤新平と金杉英五郎が、北里が臨床に関わるのに反対したことだ。北里は研究者としては一流だが臨床医としては未熟だから細菌学研究に専念すべきだ、と彼らは主張した。
北里が選択したツベルクリン療法は結核を治せなかった
より深刻な問題は、ドイツ帰りの宇野、佐々木、山極が4月に公表した帰朝報告だ。「治療死亡例を解剖した結果、ツベルクリン療法は病理学的には結核組織を壊死させない。つまり病巣中の結核菌を殺さず病巣の拡大や転移も防げない」というウィルヒョウのツベルクリン治療患者の病理解剖所見が提示されていた。それは「ツベルクリン療法の結核治療専門病院」というコンセプトが本家ドイツで崩壊したことを意味した。
そうした危惧を北里が告げると「お前さんがコッホ博士をとことん信じるように、俺は北里博士に賭けたんだ」と福沢は言って励ました。
開演直後から入所希望者は門前市をなし、キタサトの名声を慕い海外からも入所希望者が殺到した。60余りの病室は常に満床で、病棟は増築を重ね180床にまで増床した。それでも患者を収容し切れず、通院患者用の常設宿が病院周囲に建ち並ぶ始末だった。
皇太子の診察を要請されるという栄誉も重なり、北里の盛名はいよいよ高まった。
だが、残念なことに、ツベルクリンは結核治療には無効だった。
治療薬は昭和19年(1944)、ワクスマンがストレプトマイシンを発見するまで待たねばならない。
北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所の黄金時代
明治27年12月27日、北里は内務省を依願免官し、大日本私立衛生会・伝染病研究所の所長専任になった。前後、私立伝研に北里の人柄に惹かれた俊才が集まった。第一期の石神亨は海軍に復職し、高木友枝は明治29年に内務技官に転じ血清薬院院長になり、伝研からは姿を消した。明治27年に北島多一と浅川範彦、明治29年に志賀潔、守屋伍造の第二期の英才が入所した。秦佐八郎、柴山五郎作、野口英世等の第三世代の入所はその少し後になる。
明治27年12月に入所した北島多一は後に北里の右腕となった。北島は明治23年東大医学部に首席で入学し、首席で卒業した秀才で帝大を担う人材だと目されていた。北島はペスト調査団歓迎会で北里の演説を聞いて感動し、伝研入所を考えた。帝大内科教授の青山胤通は慰留したが決意は固く、帝大一派は絡め手から懐柔を考えた。北島の父は軍属なので小池医務局長の娘を娶らせることにしたのだ。
ところが当時『あざみ』という評論誌が、酷い北里攻撃をしていた。その雑誌は青山、陸軍の小池、森が組んで出していると知り、北島は結婚を諦めた。だが青山に「今は北里と喧嘩をしているが、1年くらいで仲直りしようと考えているから支障はない」と言われた。
北島は4月、陸軍サロンの偕行社で園遊会形式の披露宴を開き、北里も出席した。岳父となった小池は北島に手紙で、伝研を辞めて東大に移るように説得したが、ダメで、京都大学の教授職も勧めたりしたが、全てムダだった。
コレラの流行で成果が出せず、北里への批判が強まっていく
伝研の黄金期と呼ばれた数年は、陰りが見え始めた時期でもあった。
それが露呈したのが明治28年の東京のコレラの流行である。コレラは明治9年に患者が16万人という最大の流行後、明治15年に5万人以上、明治19年に15万人以上、明治23年に5万人と、周期的に大規模流行を繰り返した。明治28年には5万5千人のコレラ患者が発生し、死者は4万人に達した。この時、私立伝研はコレラ免疫血清を使用したが、患者193名中死亡64名という、あまりぱっとしない結果に終わった。
その頃、東京試験所所長を辞任した中浜東一郎は北里に対する批判を強めた。「上筆ヶ岡養生園で賄いの利は福沢、席料の利は長与、薬価は北里の利としているために、利を守るため中立公平な自分が煙たいのだ」と喝破した。
明治29年にはジフテリアとコレラに対する北里の血清治療を学会で痛烈に批判した。伝研のデータは血清療法を有効に見せるための捏造である、と指摘し、中立的な学者は「流石の北里も顔色なかりき」と、中浜に軍配を挙げた。
実際、北里が主張する治療成績は再現性がないことが多かった。日清戦争後の検疫で使用した、コレラ治療血清が期待外れに終わったのが象徴的だ。
髪の毛が混入した牛乳を届けられた福沢諭吉は激怒した
衛生学者としての手腕に疑問符がつき、細菌学者・北里の凋落が始まった。
明治29年10月、北里は芝公園に国立「血清薬院」を設立し、官営事業を開始した。それと同時に、伝研における血清製造部門を閉鎖した。
それは伝研国有化への布石だった。だがそれは、伝研で軌道に乗り、収益が見込める血清事業を国有化することを先行させるわけだから、北里の国家への献身とも見える。
ドイツではジフテリア血清を樹立したベーリングは特許を取り、個人の収益にした。
日本でも明治18年に特許法が成立していたので、同じ事ができたはずだ。北里がそうしなかったのはいかに金銭に恬淡としていて、北里がただ国民の健康を願っていたことの証しだ。
北里はなによりも公益を重んじたのである。
だがその頃、北里の私生活には緩みが見えていた。
同じ月には、後見人の福沢を激怒させた「不潔牛乳瓶事件」が起こる。福沢は養生園の隣地に住み、毎朝牛乳を供されていたが、中に髪の毛が混入していたのだ。福沢は「生活に緩みがあるから不祥事が起こる」と田端事務長に叱責の手紙を書いた。
その中身は北里に向けられたものだった。
北里は芸者遊びが好きで、大金をつぎ込みトンコを身請け
「北里による新橋トンコの身請け」という半年前の新聞の醜聞記事に起因したもので、艶福家の北里は「半玉(芸者見習いの若い娘)泣かせの三傑」と新橋界隈で呼ばれ、とん子は伊藤博文公と競った末の落籍だった。その費用が、養生園の収益から流用されていることは明らかだ。
とん子は発展家でオッペケペー節で名を上げた「自由童子」川上音二郞に熱を上げた。その音二郞を支えたのが名妓・貞奴で、貞奴に入れあげたのが福沢の娘婿の福沢桃介という複雑な関係だった。それはコッホが若い女優に入れあげたスキャンダルと似ていた。
ただしその恋愛の顚末は真逆で、コッホは糟糠の妻と別れ若い女優と結婚し、北里は新橋芸者と別れ妻と添い遂げたのだった。
だが北里には常に強運がついて回った。明治30年、窮地の伝研に神風が吹いた。
私立伝研における最も華々しい業績、志賀潔の赤痢菌発見である。
志賀潔が赤痢菌を発見し、北里の研究所は窮地を脱した
志賀潔は仙台の旧士族の出で東大医学部を卒業後、明治29年に伝研入りした。
最初は北里に培養基の作り方から染色法、動物試験の基礎を学んだ。北里の指導は厳格で、志賀が軽い気持ちでデータの改竄をした時は、最大級のドンネル(ドイツ語で雷の意)を被弾した。
半年の初期研修を終えた明治30年6月、赤痢が大流行した。
赤痢は激烈な下痢、粘血便、高熱が出て全身が衰弱する死病である。明治13年から30年のコレラ患者は35万人、赤痢患者は91万人で死者も赤痢の方が多かった。
当時の農家の肥料は糞便だったので、赤痢が流行するのは、ある意味で当然だった。
赤痢は北島が担当予定だったが、ドイツ留学を控えていたため、新人の志賀にお鉢が回ってきた。志賀は研究所に寝泊まりし、文献に当たった。「ヴィダール現象」という「罹患患者や回復期患者の血清に菌を入れると凝集し、他の血清では凝集しない」という「コッホ三原則」を補強する検査法を見つけ出し、これを使った。
志賀が赤痢菌を発見すると、北里は直ちに論文に仕上げよと指示した。大学卒業直後の志賀には荷が重かったが、ようやく書き上げると北里は丁寧に添削し、次にドイツ語で書くよう命じた。それも必死に書くと、北里は、志賀の単名の論文にした。
北里は「おいにはもう業績は必要なか」と志賀潔の単名論文に
驚く志賀に「志賀が泊まり込みばして見つけた菌だから、第一等の功績は志賀にあるたい。それにおいにはもう、業績は必要なか」と北里は笑った。
こうして明治30年12月25日、私立伝研の医学誌『細胞学雑誌』に志賀の赤痢菌発見の論文が掲載され、翌年1月にはドイツ語の論文が欧米誌に掲載された。
北里の師コッホは、結核とコレラ以外の業績は担当した部下のものにした。そのためレフレル、ガフキー、ブリューゲルに北里を加えたコッホ四天王が生まれたのだ。
「北里四天王」を生みたいという願いは、北島多一、志賀潔、秦佐八郎、宮島幹之助が現れて叶い、北里は「東洋のコッホ」と呼ばれるようになった。
志賀潔が赤痢菌発見者の栄誉を得たことは好影響を及ぼした。北里は弟子の業績を横取りせず、自分が励めば業績は自らのものになるというメッセージを示したのだ。
度量の広いところを見せ「北里四天王」は世界的に認められた
このことは、北里の大度量を示すものとして絶賛された。志賀の『エールリッヒ伝』では「Geld, Geduld, Gluck, Geschick」(金、忍耐、幸運、器用)という「4つのG」が学問で重要だと述べている。欧米の師エルリッヒの言葉は、コッホ研究所から北里にも引き継がれた金科玉条だったのだ。北里は積極的に部下に海外留学をさせた。
コッホ研究所の同僚でノーベル賞受賞者のパウル・エルリッヒのフランクフルトのエルリッヒ研究所に留学した志賀潔は、1904年原虫トリパノソーマに作用する色素を、秦佐八郎は梅毒スピロヘータの特効薬「サルバルサン606号」を発見した。
北島はベーリングの許で結核治療血清研究をしたが、成果は出せなかった。
だが帰国後、蛇毒血清の開発で、伝研の第1回浅川賞を受賞している。