「奇貨居くべし」と始皇帝の父・子楚を王にしようとした
しかし、大商人・呂不韋は、子楚の価値を高く見積もった。このときの呂不韋の言葉、「奇貨居くべし」は、今も使われる。奇貨とは珍しく貴重なものを指す言葉で、平たく言えば「得難い品物は後日必ず利益を生むので、すぐ手に入れておいて、じっと価値が出るときを待つべき」という意味だ。
呂不韋は冷遇されていた子楚に500金を渡して名士たちと交流させ、趙における子楚の名声を高めていった。一方、秦の安国君にもっとも寵愛されていた華陽夫人にも近づき、宝玉を献上してこうささやいた。
「趙で人質となっている子楚様は、お子のいない華陽夫人を実母のように慕っております」
華陽夫人はいずれ容色が衰え、安国君の寵愛が冷めることを恐れていた。また安国君が亡くなった後、子供がいないことで自分の立場が悪くなることも懸念していたため、呂不韋の口車に乗せられて人質だった子楚を養子に迎え、世継ぎとすることを約束した。やがて秦の荘襄王となる子楚こそ、始皇帝嬴政の父親である。
昭王の死後、子楚の父が即位するが、そのわずか3日後に死亡し、1年の喪明けを待って子楚が荘襄王となる。このとき、10歳にも満たない政(嬴政)はまだ母の趙姫とともに趙で生活していた。
父が死ぬ6年前に、子楚は妻子を置いて単身秦に帰国していたが、その裏には命からがらの脱出劇があった。秦が休戦協定を破って趙に攻め込み、怒った趙王が人質の子楚を殺害しようとしたところを、呂不韋が趙の役人を買収して子楚を秦へ逃したのだ。