孝公と商鞅による軍功主義改革が秦を異常なほど強くした
法家による政治改革の立役者・商鞅を取り立てたのは孝公だった。その後を継いだのは弟の恵文王である。即位は前338年、嬴政による六国平定(前221年)の、およそ120年前のことだ。
恵文王は商鞅によってもたらされた「君主の意のままに動く軍隊」を使い、魏の領土を削り取った。事ここにいたって、他国は秦が短期間で急速に強国化したことに気づき、韓・趙・魏・燕・楚の五国は同盟を結ぶ。『キングダム』読者にはお馴染みの、合従軍を編成したのである。ちなみに合従の「従」は「縦」と同じ意味で、合従軍とは国々が南北で連合するという意味だ。合従軍は幾度も興っているが、秦は恵文王の時代と政(嬴政)時代、2度襲われている。
戦国七雄の五国同盟軍を迎え撃って勝利した恵文王兄弟
前318年、合従軍を迎え撃った秦の中心人物は恵文王の弟であった。この史実から、当時はまだ軍功爵によって王族の権力がすべて失われたわけではなかったことがわかる。このときの秦と合従軍の戦いは秦の勝利に終わった。
秦はさらに領土を拡大していくが、見逃せないのがこの恵文王という秦の君主が「王」を名乗っていることである。穆公や孝公など、これまで秦の君主はもっとも高い爵位である「公」を名乗っていた。王といえば周(東周)王ただひとりであり、秦は周王をトップとする秩序の中にいたからだ。君主が王を名乗るということは、700年以上前から続く周を中心とした秩序から抜け出て、自らを周王と同格だと宣言したことを意味する。
恵文王は自らに権力が集まってくる中で、これまでの秦の君主とは次元の違う立場に自分が立とうとしていることを自覚したに違いない。